Noteのスキの動機 自分の記事に誘導するための通知誘発ボタン

Noteのスキの動機、少なくともわたしにスキする人は「自分の書いていることでわたしの無知や想定漏れを指摘したり、気づきを与えたり、説得しようとしている」目的であることが殆どであると思う。
スキという名前が公式についているだけで、それは通知機能にのぼらせることが目的なインプレッションを促す機能でしかないのだなと思う。
実際そうやって他者の思想に触れていくことで自分の中で同じ回路ばかりを強化して凝り固まることを避け、多様な価値観や背景を理解した上でより上質な情報を提供できる、と、「健全」な人は考えるだろう。
だがわたしは健全に異を唱えるタイプの人間であったから、その策略がそこまでうまく機能してきたかというと微妙なところだろう。
もちろん多少は他人の言葉に影響を受けて書いた記事も存在するし、視点が抜け落ちていたなと「不覚にも」気付かされたと感じたこともあるけれど、あまりいい気はしないものだった。
それはわたし特有の思想的理由、言うなれば「宗教的理由」からくる、知ることや気づくこと、成長、そう言ったものに対する抵抗感が原因であった。
それは今も変わらない。
仮にそういう意図でスキしてるのが私の妄想ではなく真実だとすると「俺様が正しいマンかよ。ウザ。」と思うわけなのだが、そう問い詰めても本当のところは白状されないだろうし私が悪者になるだけなので、この巣で宣うにとどめよう。
ただ、これまでの自分の殆どを脱ぎ捨てるというか、袂をわかつ時が来ているのではないかと感じる今は、そういうことも変更打診点の範疇であるのだ。
それでもやはり、二転三転するような印象を受けるかもしれないが、そのことそのものが今の私にとっては不快である。
「社会」という多数派の外圧に負けて個人が社会に望まれる人格へと矯正されることは唾棄すべき不自由だ。
わたしの自由に含まれる不自由も纏めて今の私は私という存在のアイデンティティを養殖的自己肯定感を以って肯定することにしていたから、そこに不和があるのは当然のことだ。
一般に(という言い方には問題があると感じるが)変わるというものは…いや、やめよう。
ここで梯子を外す。
ここまで登ってきてくれた人に悪い気もするが仕方ない、まだ2023年なので、わたしはわたしのままなのだ。
ああ、できればわたしはわたしのまま私の望みを叶えたかった。
そこに致命的な矛盾があるのか、それとも今の私の決定こそが間違いなのかはわまた暫く時が経てば結果が出ることだろう。
いつか私が全く朗らかな気持ちでこのアカウントを開くことがあるだろうか。
いつか「こんなこともやってたな」と懐かしむ時がくるのだろうか。
世の中はどう変わるか。
あなたはどう変わるか。
10年後世界はどうなっているかなぁ。
間もなく2024、このまま何度も「未来」を更新し続けて、現行一般常識上は2124頃にはこれを読んでいる殆ど全ての人間どころか、今生きているほぼ全員が死んでるわけなんだけれど、そりゃ21xxなんて数字羅列みたらさもありなん感があるよね。
じゃあ
2034は?(10年後)
2044は?(20年後)
2054は?(30年後)
2064は?(40年後)
2074は?(50年後)
2084は?(60年後)
2094は?(70年後)

あなたはその括弧の右側に何を入れる?

そしてその時、他人に自分の思想を押し付けるためにスキをしていた自分をどう思うのかな。

気になるねぇ

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