常識について、私なりに思い出す事など。
生態や人体の科学や研究の現場はとてもアナログだと思う。
エビデンスも、コウノトリがおしゃれに運んできて生まれるのではなくて、実際には”あらゆる意味で”生々しいようだ。
商業的になりすぎていたり、利権や派閥、善意悪意を含めて「作者の気持ち(思惑)」を感じとることは必要で、
それはやはり教養で身につくのだろうと思っていた。が、
先日ものすごい地頭が良いなと感じる小学一年生がいた。
話して感じたのは、これが身につくには先天的な能力と、親〜家庭での普段の言動なんだろうなと。
どこまでいっても子は、親に似ると最近考えるようになった。
その家庭の考え方や言動が、子にとっての常識になる。
その常識が今後、どんな行動をするか、どんな選択をするか、の軸になる。
選んだ事柄で人生はつくられるから、その常識がその子の今後の人生の土台になる。
例えば、公務員の家庭の子と、商売人の家庭の子の常識は、社会に出たときに大きく違うケースがあるだろうから、目に映るのは違う世界といえる。
自分の親や家庭だけでなく、近所の大人、友達の親、先生、友達などの影響もあるだろう。
もちろんこの考え方でいえば、友達も親の常識の写し鏡だし、なんなら友達の親も、近所の大人も先生も、その人の親の常識の写し鏡。そしてその親の親もその親の写し鏡。
そして今までの常識は違う世界に行った時に壊れる。
(これはなんにしても言える)
この合わせ鏡のように続く常識の写し鏡は、なにかのタイミングで壊れることもあるし、絶対に壊れないように守ろうと努力することもできるだと思う。
もしその常識が壊れた時に、それにどう耐え、どう進化し、次にどう行動を取るようになるかでも、その子の人生は変化する。
その時に必要なのは、周りのサポートかもしれない。
しかし最後に乗り切るのは自分でなければいけないと私は思う。
この周りのサポートとは、本も加わると思う。
本といってもYouTubeでも良いし、映画でもゲームでも良い。
おとぎばなしでも、科学の本でもエビデンスでも漫画でも良い。
そんなに難しい話ではなくて、極論、いじめられっ子が漫画のはじめの一歩を読んで本気でボクシングを習おうとしたときに、
「ボクシング?馬鹿じゃない?やめろ!」という親の常識が、その子をまた閉塞する状態=常識にしてしまう、というようなことだ。
もしくは習えない事柄ばかりを探してしまって、それを言い訳や納得にしてしまう。
だからそのような常識を壊す時、周りの人間、特に親の言動や行動、サポートが大切ともいえる。
しかしこれは逆説的に、そういった状態でいる時とは、親からのサポートが受けられない状態なのかもしれない。
このボクシングの例えでいえば、
自分はいじめられる人間なんだ、という常識を壊してくれたのが漫画のはじめの一歩だといえる。
つまり、そんな時に常識を壊してくれるのが、文学や科学の知識で、親の代わりに支えてくれるのもまた文学や科学の知識なんだろうと思う。
ただ個人的には、活字で理解できるようにすることが、本当の意味で自分の血肉になると思う。
これは、よくできた映像は分かりやすいし情報量が多く活用すべきだと思う反面、
そのことが、自分の考えを入れ込む行間、隙や間といったものをあまりにも少なくしてしまうからだ。
これは数時間で読めるハウツー本に関しても、ある程度近いことがいえると思う。
ちなみに余談だが、ある家庭のスタイルの人で、異常にエビデンスなどといった”絶対的な常識”に執着するケースが多く見られるのは、おそらくそれを絶対的な親の代わりにしているのかもしれない。
特性としては、揶揄的な意味のプロ市民やネット自警団といわれる人達とおそらく本質は近いのだと思うが、
もしかしたら、その常識を教えてくれた先生や尊敬する人の家庭がそうだったのかもしれない。
これは私の経験則と勝手な考えだが、割合は高いと感じる。
染谷 清行
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