もはや
ちょっと前から片足が痛く、びっくりするくらい歩くのが遅くなってようやくあたり前に歩けることの奇跡に気がついた猫目です。みなさま。こんばんは。
(もちろん整形外科を受診しました)
右足に無理を強要したため、すっかり湿布が手放せなくなり、しまいには思考までごちゃごちゃしてきました。
足が不調だと、どうやら精神も不安定になるらしく、なんだか気分が落ちこんでいたわけですが、はあ!
先ほどnoteにて、うれしいコメントをいただいたのをきっかけにふつふつと活気が戻ってまいりました。ありがとうございます。
そんなわけで本日 土曜日もさっそくなにか書き記していきたいと思います・・・と思うのですが、いったいなにを書こうか?
足に湿布を、ひたいに冷えピタを(熱はありません)貼りつけ、ぐるぐる肩をまわしては卓上の金魚を目で追いかけながら記したタイトルがこちら。
もはや
……いや待ってくれよ。これはいったいどういうことですか。題が「もはや」って。もはや、なにがいいたいのかすらわからないんですけど……と自分でツッコんでみるものの、ほかにこれといって良い案が浮かばないのでこのまま進ませていただきます。いかんせん思考がうねっているのでどうかご容赦ください。
みなさまもご存知のとおり”もはや”は副詞であって「もう」「すでに」「早くも」「今となっては」などの意味が含まれます。
もはや、どれだけ急いだところで間に合わない。見給え、電車のとびらはすでに閉まっている。
いや、でも、もはやここまできたら行くしかない。こうなったらタクシーだ。タクシーを使おうじゃないか。
↑ ちょっと無理がありますけど”もはや”はこういうときに使う副詞ですね。
・・・・・って
なにも副詞の話をしたかったわけではないので、ここから「もはや」に関するエピソードなり思考なりを書いていけたらと思います。
そうですね。
そもそも なぜ、突発的にこの単語(副詞)が浮かんだのか?それはひとつに現在執筆している小説に「もはや」を多用していた件があげられます。
言うまでもなく、意図的な語彙(そのひとの持つ言葉の意味で)でなければ作中に同じワードを何度も使用するのは避けたいところです。理由はかんたんで、読んでいるひとの目に幼稚に映ってしまう可能性があるからです。
ですので
推敲時にはできるだけ言い換える必要が出てきます。単語そのものを言い換えるのもいいですが、表現自体を変えるといった手法もありですね。そういうときに頼りになるのが類語辞典です。
↑長らく愛用している類語辞典。20歳そこそこの誕生日に母からもらった図書カードで購入した思い出の辞典でもあります。
↓(最近では無料で利用できるものも増えて、とても便利です)
あと、最近なにかと「もはや」を口にしている気がします。それも、どちらかといえば悲観的な意味が多いんですよね。
「もはや、このままではなにも変わらない気がする」
「もはや、なにをどう行動したらいいのかわからない」
「もはや、過去に戻ってやり直したい」
「もはや、足が痛くてなにを考えているのかわからない」
といった感じでしょうか。いやあ、こうして書き出してみると、まあずいぶん悲観的でびっくり仰天です。
本来 猫目は楽天家で滅多なことでは落ちこまない質のですが、どういうわけか、ここ数日はとくに悲観思考になっております。
と・・・
ここで気づいたのですが、これってもしかして原因さえ把握してしまえば、日常生活でこれほど「もはや」を連発することもなくなるのでは?
つまり、”もはやの原因”を追究すればいいのではなかろうか?
なぜ、もはやを口にしてしまうのか?
うーん。
もはや、口癖?
いやいや。それだとこの思考自体が本末転倒じゃないですか。
・・・!
もしかして日常に刺激が足りないのかもしれません。いや、日常の奇跡をみすみす見逃しているのでしょう。
それから、やはり右足の痛みで歩行が思うようにいかないというのも原因のひとつですね。
そして、おそらく一番の要因は期待どおりの結果が伴わないことでしょう。やりたいことをやれなかったり、想像していたようにいかなかったり、ダラダラ時間を浪費してしまったりして、それらが互いに絡みあい(あるいは無理に絡みあわせて)とうとう「もはや」を連発するという次第になってしまったのでしょう。
まあ、これらは推測に過ぎませんが、なるほど、思えば最近めっきり分析をしなくなっていました。分析をして現状を把握することが今後のために欠かせない大切なことだというのに、猫目ときたらそれ自体を怠っていたわけですね。ふんふん。なるほど。
「もはや」を少なくする(悲観的な思考を排除する)には、やはり徹底して原因を追究して解決していくほかありません。
加えて「もはや」はその使いかたや表現によっては、あきらめの意味を強くあらわす言葉でもあります。
「もはや○○だから○○じゃないですか」
「だって、もはや○○なんだから」
などと頻繁に口にしてしまうのは、もはや、あきらめの意識があらわれている証拠といってもよいのではないでしょうか。
とはいえ、猫目はべつに諦めたいものなどありません。あきらめたくないのに諦めなければならないような状況に追いこむ。いったいこれに何の意味があるのでしょう?
あきらめたくないのなら、
諦めなければよいのです。
反対にあきらめたいのなら、それは、すっぱりバッサリあきらめて他のことに前向きになって取り組んだほうがはるかに心が穏やかというものです。
さて、さいごになりましたが、副詞であるところの「もはや」はなにも悪くありません。彼はなくてはいらない存在ですし、文章をすてきに縁取ってくれる存在でもあります。
もし、世界から「もはや」が消えてしまったらと考えるだけで身ぶるいすらしてきます。にもかかわらず、ここまで「もはや」をまるで悪者よろしく書いてしまったことをお詫び申し上げます。きみは味方だ。いつもありがとう。
と、いうことで(いささか結びが強引だが)本日は”もはや”にまつわる心境についてお話しさせていただきました。
みなさま、毎度さいごまであきらめずにお読みいただき誠にありがとうございます。気のせいかもしれませんが足の痛みがやわらいだように思います。あまり無理に動かさないほうがいいみたいですね。
それでは、また来週!
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