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「樹海」フルヤアツシ

樹海《樹海ライトアッププロジェクト》に寄せて 
フルヤアツシ


「自殺」という言葉を見るだけで不吉なこの行為において、
我が国は恥ずべき先進国として台頭し続けている。

コロナ禍の影響においては、全体に占める若年層の自殺率が急上昇し、2022年現在高止まりの状態にある。

加えて、著名人の相次ぐ自殺、2月末には核さえ垣間見える戦争の勃発。

社会不安というものは、常に曖昧としていてとりとめがない。
坂口安吾が「白痴」の中で捉えた戦争は、
国体護持的なものでも、身に迫る驚異でもなく
「曖昧な、圧倒的な力を持つ怪物」であった。
坂口はその巨大な力に暗鬱な喜びを見出していたが。

今我々の世界を闊歩しているものも、
様々な世界の構造障害が絡み合ったところの
「巨大な怪物」ではなかろうか。
彼らは形なく休みなく闊歩し、私達を膜で内包し、
行き場のない不安と閉塞の液体の中に浸しきっている。

その世界全体に浸透した目に見えない流体状のムードは
芥川龍之介の「ぼんやりとした不安」に似て
あの答えのない「そんなことするふうには見えなかった!」
理由の判然としない死を選ばせる薬液として機能しているのではないか?

ベルリンの中心部にある「ホロコースト記念碑」は
2,711基の無機質なグリッド状の石柱で
都市中心部を占有する形で2万平方メートルに渡って配置されている。

この記念碑はまず死んでいったユダヤ人のためのものである。

しかし同時に、目をそむけようのない立地、都市の中心に配置された、
それ自体具象的意味を持たないグリッドの連続はドイツ人の中に闊歩する
「形のない怪物」。

かつて自らの民主的賛同の元虐殺に加担したことに対する罪悪感の怪物に形象を与えることが目的ではなかろうか。

強迫性障害や不安障害患者が、ありもしない不安の対象を”でっちあげて”、それを駆除することで自らを安息させるのに同じくして
人は形にならない不安に耐えられず、それを形象化して扱うことで安息を得ることが出来る。

従ってこの数年で、前触れもなく産気づき「歴史的な怪物」を出産したこの世界においても、受肉させ、安定させる必要があるのだと考える。

「樹海」と聞いて何を連想するかは、殆どの人間にとって同じであろう。
地域差はあるかもしれないが、この場所がその行為の象徴として、換喩として機能することに異論はなかろう。

突出して疫病と経済の大舞台である都市部においては、
この場所の持つ象徴性に引き寄せられて毎年多くの人がこの地に赴く。

彼らはある日きらびやかなる雑踏から、多くは静かに秘密の脇道を通り
暗い山道を抜け、一人逍遥とその場所に至る。
怪物の支配から逃れる唯一の出口へと。

その場所は我々の特異な特性とも相まって、
ありながらにして隠された場所である。

彼らがその隠された道を伝うとき、
「樹海は室町時代の富士噴火によって形成された溶岩質の原生林」
という物理的な事実にオーバーレイされた形で

「忌むべき経路、忌むべき場所」としての認知的特性を与えられる
そして”ケガレ”のシステムでその存在は”ハレ”の世界から排除される。

結果、死は煙のようなフェイドアウトとして行われ、その曖昧さは、死してなお膨らみ、おそらく怪物の栄養源となるのかもしれない。
怪物は曖昧なものしか摂取できないのだろう。

この段階で、あらかた予想がつくかもしれないが、
我々が企図するものは、この捕食のシステムにたいする介入である。

我々は颯爽と車に乗って樹海へと赴く。
そこで、華々しい電飾を用いて樹海を飾り立て、そこを清掃し、配信する。
暗いところで培養されるべき曖昧な不安のシステムは
照明され、意識の俎上まで引き上げられ、モニュメントとしての意味を与えられた瞬間、その機能に大いにダメージを被る。

つまり、忌むべき場所に対して積極的に意識的介入を行うことは
少なからず、この曖昧さの増幅、怪物の肥大に対しての攻撃として機能する。

彼らが暗鬱な捕食を行うための暗い道と暗い場所を我々は照らし出し、
曖昧から曖昧に消沈していく構造を、シンボリックな明確さへと変造する。

それが今回のパフォーマンスの目的であり、
同時に我々の怪物との戦いの試みなのである。

ある種の怪物映画にあるように、私達は彼らの秘められた体内に侵入し、
その内的機関を構造的に変造し、
今度は怪物を我々を安定させるための味方として生まれ変わらせることが出来ると信じている。

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