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1月チェロレッスン1回目(続き):レクイエム

前回の続きです。

先生に、「夜はなぜバッハ無伴奏チェロ組曲5番にこだわるのか?」と聞かれた。
先生に「教えられない」と散々断られても、私がしつこく教えてほしいと迫ったからだ。

「えーと…生前母がよく聴いていたからです。」

★★★★

母と暮らしていた頃、家の中でよく無伴奏5番が流れていた。
幼い私はこの暗い曲調故に関心がなかったが、「コレは何の楽器なの?」と聞いたのだと思う。
母は「チェロだよ。」と教えてくれた。

私は楽器というとピアノとエレクトーン、学校で習う鍵盤ハーモニカとリコーダーくらいしか知らなかった。
ピアノは習っているクラスメイトがいて、興味があった。
しかし、ウチは母子家庭で貧乏暮らし。
ピアノを習うお金がなかった。

母は私が寝る前に本の読み聞かせをしてくれた。よく読んでくれたのは、宮沢賢治の童話集。特に「セロひきのゴーシュ」をよく聞かされた。
そのように思い返すと、母はチェロが好きだったようだ。

大学生になり、オーケストラのサークルがあることを知った。
楽器は貸与してくれるという。
チェロを弾いてみたくて入団したが、生憎チェロに空きがなく、ヴィオラの係になった。

諦めきれずに、チェロ師匠に弟子入りした。
その頃チェロの曲をたくさん聴くようになった。
そのとき初めて、母がよく聴いていた曲が5番だと知った。それまで私はバッハ無伴奏は1番プレリュードしか知らなかった。

母がなぜ5番をよく聴いていたのかは、尋ねなかったのでわからない。

★★★★

「いつか、母の墓前で弾いてあげたいと思っているんです。そういう有りがちな理由です。」

私の話を黙って聞いていた先生。
「きっとそうだろうな、とは思ってたよ。」と言う。

「私はてっきりセンセは5番が好きじゃないのかな、って思ってました。違うんですね。」

先生、椅子に座り直しながら「うん、違うね。」と答えた。
そして、先生が学生だった頃の話をしてくれた。

★★★★

僕に5番を教えてくれたのは、僕がまだ学生の頃に師事していた先生だった。

その先生は肺癌を患って、少し前に手術したばかりだったの。
先生は「5番の終わりまで物悲しいメロディは夢も希望もない感じよね。でも、私は物思いに浸れるこの曲が好き。」と話していたんだよ。

その5番を教えてもらっていた年末。
先生は病気のためにずっとアルコールを絶っていたんだけど、年末の賑やかな雰囲気で楽しくなったんじゃないかな。その晩、だいぶ飲んだみたいなんだ。

翌日、昼にになっても先生が起きてこないので家族が部屋へ行ったら、ベッドの中で息をしていなかったって。心不全だった。

先生の葬儀には、5番プレリュードが流れたよ。

★★★★

聞いていて、すぐにわかった。

先生は、この亡くなった先生に恋愛感情を抱いていたんだ。

「5番、特にプレリュードとサラバンドはレクイエム的に弾かれることが多いよね。
昨年戦争が始まったときにも、プレリュードがよく弾かれたね。
T先生も5番サラバンドをレクイエムとして使ってる。
僕は、夜がステージで弾いた3番のサラバンドのほうを使うけれど。最後に希望が見える曲調だからね…。

この前、夜が『自分のレクイエムとして5番を弾いてほしい』と言ったとき、思わず怒っちゃったね。
実際5番で見送った人がいたからなんだ。
怒って悪かったね。」

私は「いいえ…。」と言ったきり、何も言えなかった。

私が「母と同じ病が見つかった。長く生きられないかもしれない」と言った時、先生の中では、山で亡くなったお弟子さんと5番を教えてくれた亡き先生と、私が重なったのかもしれない。

「5番は僕にとってとても大事な曲なんだ。
哀しい思い出だから、これまでもこれからも本番で弾くことはない。
今まで教えたことはあったけれど、気が進まない。
夜があんまり熱心だから教えることにしたけれど、病気が見つかったと聞いたときに、やっぱりやめればよかったと思ったよ。
病気が深刻な状況じゃなかったと聞いて、どれだけ安堵したことか…。」

先生はそう言ったきり、黙ってジッと私を見た。
私はそれまで抱えたチェロに保たれて話を聞いていたけれど、先生の視線が余りにも真剣だったから、思わず姿勢を正して、椅子に座ったまま後退りしてしまった。

長いこと沈黙が続いた気がしたけれど、多分そんなことはない。

急に先生、ニヤリとして
「というわけだから、生半可な仕上がりは許さないよ。」
と言った。

思わず私は安堵のため息をついた。
(告られるのかと思ったー(汗)。)

そんな私の様子を見た先生、私の心の内を見透かしたのか、一瞬苦笑した…。

「これまでだって、センセはなかなか合格くれなかったじゃないですか。」
気を取り直して私は言った。

「さらに厳しくなるってことだね。半ページの序奏だけで何ヶ月かかるかな?」
と先生ニヤリ。

「げー…。」

「しゃべり過ぎたな。今日のレッスンは2時間ね。」
「げー…。」

★★★★

先生とこんなに腹を割った(と言うのかな?)話は初めてした気がする。

先生宅に住まわせてもらっていた頃は、勉学にバイトにとても忙しかった。
ご飯は一緒に食べていたけれど、何を話していたか覚えていない。
二人とも自分の内面について話したことはなかったと思う。
私は若過ぎたし、先生も若かった。

お互い歳を重ねて、自分の気持ちを整理して冷静に言葉にできるようになったのだろう。
そして、一人の人間として信頼できる関係になったのだと思う。

★★★★

その後2時間みっちり、ビシバシやられた…。

「付点八分音符に引っ掛ける」バロックの弾き方がまずうまくいかない。
右手の弓使いが悪いことがわかった。
弓使いだけ、手が覚えるまで練習する必要がある。

「食って入る重音の弾き方」も甘いとのこと。間延びしてしまっている。
次に何の音が来るのか、暗譜していないと弾けない。

あとはもう、いつものこと。
拍の取り方がめちゃくちゃだとの指摘…。
キチンと暗譜していないから、途中途中で止まってしまうのが原因。

根本的に音楽になっていないのだ。

先生の言うとおり、これは何ヶ月かかるかわからないな…(汗)。

レッスンの最後、先生は私と一緒に序章を弾いた。
練習したところまで弾いた私は演奏を止めたけれど、先生だけ引き続き右半分のページを弾いてみせてくれる。
チェロの哀愁に満ちた低音がレッスン室いっぱいに響いた。

と、3ページ分丸々残して、先生は演奏を止めてしまった。

「ああ〜、最後まで弾いてくれればいいのにー。」と私。
「イヤだよ。」と笑う先生。
残念。

終わってみたら、室内の暖房の効きが悪いというのに汗だくだった。

急ぐ必要もない。ゆっくりやろう。





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