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【選手名鑑Vol.3 丸田篤幸】 ー学生コーチへ転身した裏側にはー

立教男子ラクロス部には150名を超える部員が所属しており、それぞれが様々な方法で部に貢献している。フィールドプレーヤーからゴーリーへの転身、治りづらいとされる怪我など色々な経験をしてきた4年丸田。そんな彼は学生最後の一年間、部に貢献する方法として「学生コーチ」という道を選んだ。彼の秘めた想いに迫る。

悔しい経験

中学・高校と一生懸命に部活をやり切ったとは言えなかった丸田。
入学してすぐの4月の新歓でラクロス部の雰囲気に惹かれた丸田は、最後の学生生活くらいは打ち込んで、努力できる環境にいようと考え、ラクロス部に入部した。

一年生の時、学年練習を重ねるにつれ、スタンシューが得意になった彼は、チームの点取り屋のポジションであるアタック(AT)を選んだ。

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*ショートクロスを持っている中央の#57が丸田。


1年生の学年試合、サマーではBチームを引っ張る存在に。だがウィンターではほとんど試合に出ることが出来ず、悔しい思いをした。

最後の学年試合あすなろに向けて、この悔しさを晴らそうと一層努力をするようになった。



練習に励んでいたある日、両膝に違和感を感じるようになった。悪い走り方が原因で溜まってしまった疲労、それによりシンスプリントという完治の難しい怪我を負ってしまったのである。

練習を抜けざるを得なくなってしまった丸田は、このままフィールドプレーヤーを続けることは難しいと判断し、ゴーリーになることを決めた。

そこには、密かに抱えていた彼の強い思いがあった。

”チームに必要とされる人間になりたい”

チームにゴーリーが足りていない状況を見ての判断であった。


だが、丸田の思いとは裏腹に周りの反応は良いとは言えないものであった。怪我から逃げてゴーリーになったと批判する人がいたのだ。



現主将 立川の存在

しかし、そこで大きく彼を支えたのが、現主将 立川の存在だった。
立川は「お前なら出来る」といつも励まし、プレーを見ては「ゴーリーのセンスあるよ」と褒めた。

立川の応援もあり、怪我から復帰した丸田は練習に一層精を出すようになった。



2年の冬、合宿で立川と同じチームでディフェンスを引っ張っていた時、
「お前と一緒にリーグ戦に出たい。」


と立川に言われた。
丸田はこの時、立川のためにどんな事でもしようと決意した。

3年での苦労

3年のシーズンでは、立川とリーグ戦に出ることを目標として努力を続けた丸田だったが、大事なところでのミスなどから同期の増田に抜かされてしまった。
また追い打ちをかけるように後輩の松葉も頭角を現し、リーグ戦出場は遠いものとなっていった。

しかしそこでも丸田は努力を惜しまなかった。
Bリーグでの活躍。日体戦では丸田の意地を見せた。

どんなシュートが来てみ止めてやるという気持ちで試合に臨み、丸田の大活躍により勝利を掴み取った。

新チーム

3年次の12月、新チームが発足した。
主将となった立川は、「一人一人を勝因に」をチームのビジョンに掲げた。

自分を温かく受け入れてくれた立川、セインツの部員に対して貢献したい。

丸田の胸にずっと潜んでいた大きな思いだった。




ゴーリーとしてリーグ戦のメンバーを目指すのか

自分の経験を生かして後輩の育成をするのか



丸田は、様々な挫折や苦労をしてきた自分だからこそ出来ること、
そして何よりもチームに貢献したいという強い気持ちから


後輩の育成を選んだ。



学生コーチとして

丸田は新入生時代、自分たちの代をサマー・ウィンター優勝、あすなろ準優勝という快挙に導いてくれた当時のコーチみずきさんに憧れを抱き、

”コーチ次第でチームを優勝させることも出来る。こんなコーチになりたい”

と考えていた。


Bチームでの練習が多かったため、Bの技術の底上げの必要性を感じており、
Bチームの中にももっと上手くなるプレーヤーはいるのに、ともどかしい気持ちを持っていた。


自分自身が新入生の時に感じたように、後輩にコーチの力でチームが良い方向に向かうことを証明したい。

そしてBチームでも後輩が大きく輝けるようにしたい。


そんな気持ちで活動している。


コロナウイルスの影響によってリーグ戦や全日本大学生大会の開催が不確かな状況の中、

この先どうなるかという不安や、普段とは違った練習形態など、抱える問題も大きい。




そんな中でも、持ち前の観察力と、意地で
チームをより良いものにしていってほしい。

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執筆:川口峻征

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