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パリ五輪と誹謗中傷

◇「東京五輪のとき、こんなに誹謗中傷あったっけ?」
 今年のオリンピックは何かと不平不満が噴出しているように見受けられますが、3年前の東京オリンピックはどうだったのでしょうか?正直あまり記憶がありません。自国開催だったというのが大きかったのでしょうか。それとも本当に今回のパリオリンピックは酷い大会だったのでしょうか。

 阿部詩選手の慟哭に対して、柔道の不可解な指導や判定に対して、競歩の出場辞退に対して、出口クリスタ選手のカナダ国籍選択について、男子サッカーのオフサイド判定に対して、フェンシング選手の金髪について、男子バスケットボールのフランス戦のファール判定について、男子バレーボール選手への誹謗中傷・・・
 そこまでテレビに齧りついていない私でもこれだけパッと思いつくほどにマイナスの話題に事欠きません。

 中には確かに疑問符がつくものもあります。でも、です。明らかに「そこまで言わなくてもいいのに、言わずにはいられない人」がこんなにもSNS上には溢れています。


1.いったん口を閉じる

 テレビを前に、家族とあーだこーだ言いながら観る分には構わないと思うんです。わざわざ、寄ってたかって正義の拳を振り上げながら言わなければならないことなのか?自分をここまで不快にさせた責任を取れと責め立てないと気が済まないのか?と思ってしまうのですが、これさえも一つの人によっては口撃だと受け取られてしまうのでしょう。

 内田樹先生は『街場のメディア論』の中で、「自分がもし「世論的なこと」を言い出したら、とりあえずいったん口を閉じて、果たしてその言葉があえて語るに値するものなのかどうかを自省する」ことを勧めています。これは、SNSを利用するときに特に気を付けたいことだと思います。
 その上で「自分が言わなくても誰かが代わりに言いそうなこと」は言わずに「自分がここで言わないと、たぶん誰も言わないこと」に目を向けるべきだと指摘しています。

 インターネットは多様な考えに触れられる良さがありながら、ときにはこうしたトピックをもとに炎上したり、誰かが多勢から非難を浴びたり、あるいは分断を生んだりします。

 そこには先に挙げた「自分が言わなくても誰かが言いそうなこと」もあれば「これだけは言ってはいけないこと」も当然あるだろうと思われます。それは表現の自由とは別の話です。
 現に傷ついている人がいるわけですから。

2.そもそも不満を表出する場となっている

 私自身もTwitterをやっていましたが、現Xになる前に更新するのをやめてしまいました。教員界隈は比較的平和ではあると思います。実際、いろんなご縁もあり、学びの機会もたくさんありました。しかし、教員のブラックさを吐露する人や考え方の食い違いから揉める人なども多くいることも事実です。

 SNSを利用するもしないも自由ですし、どのような目的で利用するかも個人に委ねられています。そのことを踏まえて、津田正太郎さんは『ネットはなぜいつも揉めているのか』の中で以下のように述べています。

ここで注意する必要があるのは、「人それぞれ」は他人に対する無関心とイコールではないということです。「正解」があらかじめ決まっていない分だけ、他人がどのような選択をしているかについての関心が高まることもありうるからです。

『ネットはなぜいつも揉めているのか』津田正太郎(ちくまプリマー新書)

 たしかに、パリ五輪での様々な件も、(全部が全部ではありませんが)考え方や捉え方は「人それぞれだよね」で片づけられそうなものです。そして「こうすべきだった」の正解、つまり考え方や捉え方が違うからこそ対立が生まれたり、妙に結束して口撃してしまったりするのでしょうか。

 さらに津田さんはTwitterには人びとの不満が表れやすいという特徴を挙げています。
 「「人それぞれ」で受け流したとしても、他人のふるまいにイラっとすることはある。それを吐き出すための場として機能している」

 最早Twitterなどはそういう場として成立してしまっているのですね。利用者もそれを無意識のうちに了解して使用していると。
 選手本人に直接コメントやDMが送ることができるというのは、応援や励ましのメッセージを伝えることができる素晴らしい機能であるにも関わらず不満をダイレクトにぶつける手段となってしまっている。

 SNSとの向き合い方はもう少し考えていかねばならない課題だと思った次第です。

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