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対話に備える(2)

◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。対話について引き続き、書いてみます。

 前回、求められるコミュニケーション能力のダブルバインドについてと、学校現場における対話的な学びの注意点について述べました。学校では前述のように「主体的、対話的で深い学び」ができるようにと教師の側は指導計画を立てています。肝腎の子どもたちはどうなのでしょうか。「主体的になって対話しながら学ぼう!」なんて当然思っていません。学校に来るときには「誰と遊ぶ約束しようかな」くらいにしか思っていません。それでいいのです。


1.欲求充足から必要充足へ

 世の中がコミュニケーション能力のある人材を求めるようになって久しい。これは、現代人にコミュニケーション能力の低下が顕著に見られるからではない。高度経済成長期を終え、工業的な生産様式でみんなが同じ能力で同じものできだけ速く作るというような時代ではなくなってきていることを指している。個性の発現と尊重が叫ばれ、みんなとできるだけ違う方がいい、あの人はあれができるけど私はこれができる!のようなたしかな「個」をそれぞれが求めるようになった。違いがあるからこそ、その橋渡しをする対話力が必要なのだろう。

 このことから言えるのは、世の中のニーズが変わっただけで子どもの容態は変化していない。コミュニケーション能力の低下など(多少はあるにせよ)見られないと言っていいと考える。小学校現場で10年以上指導しているが、その変化は私自身感じない。困ったときだけ相談にくる子、常に何か喋ってる子、声の小さい子大きい子、英語を習ってる子、10年前も今も大きくは変わっていない。

 それよりも大事なことは「伝わらなさ」の体験と「伝えたい」の発露だろうと考えている。SNSの発達とともに、子ども達は極限まで短い言葉(例えば、「おこ」とか「り」とか)やスタンプでやり取りするようになった。少ない文字情報で必要最低限のやり取りを可能にしている。「伝わっている」と思い込んでいる。それでいいと感じている。

 当たり前だが、誰も傷つきたくないし、フラストレーションを溜めたくない。だから、「伝わらなさ」に直面する体験をすることで、ではどうすれば伝わるのか、そして、何とか「伝えたい」に接続していくことをねらっていきたい。これでいいやの欲求充足から必要充足へのシフトチェンジだ。


2.対話をするとはどういうことか

 よく会話と対話の違いは何か、という話になることがある。

 「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見いだす態度だと言ってもいい。

平田オリザ『わかりあえないことから』

 学校では、国語でディベートをする学習があったりや特活で学級会をしたりするが、上記のように意見の変容を自ら受け入れることを価値付ける、事前に指導することが重要になる。なぜなら、異なる意見同士をぶつけ合い、どちらが正しい間違ってる、買った負けたの二元論にしかならないからである。

 人はどうやら自分の意見を曲げる、変えるのが苦手な生き物らしい。子ども達だけでなく、異なる意見、立場の人と折り合いをつけることの大切さを身につけて欲しいと思いながら日々指導にあたっている。それが、対話とは何かを知り、相手に対して自分を開く、自分の考えや価値観が変容することを受け入れる、つまり対話に備えることなのだと思う。

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