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『シリアスボードゲームジャム』に参加してわかったこと

このnoteでは、2022年9月24日、25日の2日間にわたって参加した「シリアスボードゲームジャム2022」の感想を書いていきます。
僕は普段、いわゆる「普通の」ボードゲームのデザインをしていたり、それを子どもたちに教えたりしています。今回、シリアスボードゲームジャムに参加してみて、「シリアスボードゲーム」を作る上で気づきを得たことを素朴に書いていこうと思います。
シリアスボードゲームのデザイン全体を語るというより、「気づき」をトピックとしてまとめましたので、そのように読んでいただけるといいかと思います。(あとゲーム作りに夢中で写真がないので今回のnoteは文字ばかりです、すみません)

シリアスボードゲームジャム2022について

シリアスボードゲームジャム2022(以下、SBGJ2022)は、2022年9月24日(土)、9月25日(日)に2日間にわたって、くまもと森都心プラザ図書館にて開催されました。
社会問題や環境問題をテーマにした「シリアスゲーム」を、チームを組んで短期間に新しいゲームを作る「ゲームジャム」形式のイベントです。(HPより引用)

「ゲームジャム」については、これまで僕自身も2年間で2度開催してきています。詳しくは、それぞれのnoteをご覧ください。

違いとして、SBGJでは参加者を「親子」の単位ではなく個人としており幅広い世代の人が参加すること、2日間ともゲーム作りの時間に充てること、そして何より「シリアスゲーム」を作ることがあります。

今回のSBGJの内容に関する詳しい情報は、上記のHPをご覧ください。
特筆すべき点は、テーマが「食卓からは見えない景色」ということです。
普段、ゲーム自体(あるいはゲームに関するトピック)についてはよく考えるのですが、社会問題・環境問題に関しては一般に考える以上には詳しくないため、素人知識での参加となりました。

以下では、ゲームジャムのプロセスにしたがってではなく、「気づき」に関して散発的に書いていきます。
トピックが突発すぎる、と感じるかもしれませんがご容赦ください。

「チョコレートで包まれたブロッコリー」を作るのも実は難しい

ゲームと学習がお互いを阻害しあう形で合わさったものを揶揄して「チョコレートで包まれたブロッコリー」と表現することがあります。
これは、ゲームと学習の文脈が分離していることを指す言葉です。
とはいえ、「ゲーム」と「学習」とを切り離してみてみると、それぞれはそれぞれとして成立しているものであることがあります。
例えば、よく「チョコレートで包まれたブロッコリー」の例としてゲームを用いたドリル学習が出てきますが、ドリル学習自体はそもそも「学習」要素としては、きっちり効果をあげられるものになっています。
エンタメ性(ゲーム性)が強すぎて、「学習」が付随的に起こりにくい、とされるシリアスゲームもあるとは言いますが、それはある意味で「ゲーム」として、没入する体験をしっかり作れているからであるとも言えます。

よくデザインされたシリアスボードゲームは、「ゲーム」と「学習」の2つのどちらも高い水準で融合させたものです。
例えば、このSBGJ中には、「グリッズルド」が紹介されていました。

このSBGJ中には、グリッズルド(といっても、「グリッズルド」はそもそもシリアスボードゲームとしてデザインされたものではありませんが)のように「ゲーム」と「学習」の2つの要素を高い水準で達成するどころか、「ゲーム」もしくは「学習」のどちらか片方をも満足に作り込むことができませんでした。
言ってしまえば、どちらも中途半端になってしまったのです。

ざっと思いつく原因として、

  • 「学習」(=シリアスの側面)として、伝えたいメッセージが曖昧で決めきれていなかった

  • 「ゲーム」をプレイすることでどんな面白い体験をプレイヤーにしてもらうか十分に決めきれていなかった

という2点が挙げられるかなと思います。
以下、それぞれについて書いていこうと思います。

伝えたいメッセージはシンプルな方が良い

「学習」=シリアスな側面に関わることなのですが、シリアスゲームである以上、ゲームプレイによってプレイヤーが何を達成するのかを想定することは大切だと思います。
それは、例えば「知識が身についた」でも良いですし、「スキルの練習ができた」でも、「意識しなかったことに気がつけた」でも、「考えるきっかけになった」でも、「日常生活の行動を変えようと思った」でもOKです。
大事なのは、ゲームに込める「メッセージ」が決まっているかどうかだと思います。
例えば、今回「食卓からは見えない景色」というテーマでしたので、ゲームプレイを通して、これまで意識してこなかった、目の前にある食事の向こう側の事情について思いを馳せることができた(気づき・知識を得た)ということでも良いと思います。
このように、ゲームを通して「プレイヤーにどのような体験をしてほしいか?」が重要です。

ところが、自分がいたチームではこの部分が最後まで曖昧なままプロセスが進んでしまいました。
特定の知識を知って欲しいのか?考えるきっかけにして欲しいのか?
結局、おそらくゲームプレイ(ブリーフィングまで含めて)を通して、「考えるきっかけ」を与えることを目指していたとは思うのですが、両価性のあるメッセージを伝えることをはじめに取り上げてしまったため、そこから動けなくなってしまったのです。
両価性のあるメッセージとは、「◯◯は良いが、その反対の□□も場合によっては良いことがある」ということです。
常に、一定方向に志向性を持っているわけではなくて、「場合によって」「時代によって」「文化によって」変わる価値観をゲームの中に表現しようとしたのが難しかったです。
もともと「ゲーム」は「勝ち・負け」という一定の志向性を持ったものです。
上記のメッセージは、「ゲームの中で多様な戦略を取れること」と類似性を見出していたので、僕としてはうまく表現できると考えたのですが、結局のところ「勝ち・負け」という志向性を持つゲームの構造にうまく当てはめることができませんでした。

もっとシンプルに、世間一般に「◯◯する方が良い」ということとゲーム内での得点行動を対応させるか、あえて世間一般に知られていない「実は□□するのも良い」というメッセージを強くプレイヤーに伝えることを目指してゲーム内での得点行動と対応させると良かったかもしれません。
(どちらかと言うと、後者の方がシリアスゲームとしては驚きがあって良いと思っていました)

いずれにしても、両価性のあるメッセージを、プレイを通して体験してもらうゲームを作ることの難しさを痛感しました。
もちろん、2つの価値観を示して考えるきっかけを体験してもらうゲームも作ることはできると思うのですが、単にプレイヤーが気づきを得て、知識を身につけてもらうゲームを作る際には、ゲームの志向性(勝ち・負けという価値観)を載せやすい、シンプルなメッセージが良いのではないかと思いました。

「面白い」ゲームを作ることは難しい

いや、そう、本当に。
当たり前のことを当たり前にトピックとして書いていて恥ずかしい気持ちではあるのですが、本当にそのことを痛感しました。
だから、「チョコレートで包まれたブロッコリー」を安易に腐すことはできないなという気持ちです。

今回のSBGJでもう少しサポートがあれば良かったかなとあえていうとすれば、この「面白い」ゲームを具体的にデザインしていく方法についてです。
米光さんのゲームデザインに関する論の紹介(ルイージ:「ルール」「インタラクション」「ジレンマ」)などはありましたが、何を、どこから手をつけていけばいいかは、ある程度「ボードゲーム」に触れている人でないと途方に暮れてしまうのかなと思いました。
(このあたり、自分が行っている「親子ボードゲームジャム」では前日にいろんな種類のボードゲームをプレイしてもらったり、あえて「模倣する」ことを奨励することで乗り越えようとしています)

それで、自分たちのチームはというと、少なからず僕自身もゲームデザインをしてきたことがあるので、「できるはず」とたかを括っていたのですが、出来上がったものは、学習面の体験との統一性やルールの合理性のない「ゲームのようなもの」になってしまいました。

こうなってしまった要因の1つには、前段の「伝えたいメッセージが曖昧なまま進んでしまった」ことが大いにあります。

なんとか「◯◯という戦略をとっても勝てる」し、「□□という戦略でも勝てる」ようにするためのデザインを設計しなければとの思いから、いろいろなメカニクスをつけていった結果、キメラのようになってしまい、ゲーム全体が淡々と進む(処理的ゲームとSBGJ内で紹介されていました)、どこに「面白さ」があるかわからないゲームを作ってしまいました

「面白さがどこにあるかわからない」は正直深刻な問題です。
メカニクスの積み上げでゲームを作っていくと陥りがちではありますが、結局「プレイヤーの感情を揺さぶる、感情が動くポイントがどこなのか」がはっきりしない、端的に面白さを表現できていないゲームは、どれだけ細部をいじったとしても将来性がないです。(あくまで経験上ですが)

本当は、この「面白さ」につながるプレイヤー目線での「楽しい」を最初に設定すべきだったのだと感じています。
例えば、

  • 意外なことが起こる楽しさ

  • 運によって、状況が変わるのをドキドキしながら見守る楽しさ

  • 計画したことがうまくいく楽しさ

  • 小さなことが大きくなっていく楽しさ

  • 集める楽しさ

  • 他の人の邪魔をする楽しさ

など、人間の根源的な欲求に根差すものもあれば、後発的に「楽しい」とされているものもあります。
もちろん、「他の人の邪魔をすることによって、意外なことが起こる楽しさ」みたいな複合技でもOKです。
それにしても、まずはこの「楽しさ」をバシッと一文で設定して、(「シリアス」というお題目を退けた上で)「ゲーム」として「面白い」ものを作ることが必要でした。

ルールによって、場は確かに動いていくんだけど、そこでプレイヤーの感情が動いていかない=楽しい!と感じる場面がない、「ゲームのようなもの」を作ってしまったのは大反省です。

ちなみに、「楽しさ」を設定した後、具体的にどうやってゲームを作っていくかについては、「ジレンマ」を中心に子どもたちとゲームを作っていった過程をnoteにてまとめていますので、よければぜひご覧ください!

ゲームプレイと「現実」のマッチによる納得感が大事

SBGJに参加して、シリアスボードゲームこそ「フレーバー」がとても大切だということに気づけたのは個人的に大きな発見でした。
僕は、普段のゲームデザインではついゲームのメカニクスから考えてはじめてしまいます。
そのため、ゲーム内でプレイヤーが取るアクション、例えば、サイコロを振る行為を現実における何かと対応関係を作ることはありませんし、逆に「現実的にはそうする根拠のない行為」というものをゲームに入れることがあります。

ところが、「シリアスボードゲーム」を作るときにはプレイ中のアクションや設定と現実とのマッチがすごく大事になることを身にしみて体験しました。
例えば、どんな背景でプレイヤーは争っているか、なぜサイコロを振ると資源が得られるのか、サイコロを振るというのは現実の何を表しているのか、資源を交換するのはどうしてか、誰と交換しているのかなど1つ1つのプレイヤーが取るアクションに具体的な意味付けを持たせる=フレーバーをつけることが、学習体験をより深くするということです。

実際、今回作ったゲームをテストプレイしてもらうときに、「フレーバー」を意図的に廃して、「ルール」を伝えることに専念したのですが、プレイヤーのアクションの1個1個(例えば、カードを取るというのはどういうことなのか、トークンを集めるのはなんなのか)が現実の「何」に相当していて、プレイヤーが「どんな立場であるか」がわからない!むしろ現実と乖離している、という感想を率直にもらいました。
インスト(ゲームの遊び方を説明すること)の時の問題点と言ってしまえばそうなのですが、「シリアスボードゲーム」であるからこそ、なおのこと「フレーバー」をきっちりメカニクスや設定・ルールと対応させて設定しておくことが必要だったのだなと思いました。

前段、前前段の話に繋がっていくことになりますが、よくできたシリアスボードゲームは、ゲーム内でプレイヤーが体験する具体的なアクションが現実のメタファーとしてよく機能しているために、「学習」面で想定するメッセージが伝わりやすく、かつ「面白い」ゲームだと考えます。
ゲームプレイにおいて、プレイヤーが難なく「ああなるほどね」と納得感を持てることの大事さはシリアスゲームデザインならではだなと思いました。

とはいえ普段のボードゲームデザインでも「フレーバー」が「面白さ」を生むということもあり、シリアスボードゲームに限らず「フレーバー」の力を再認識する良い機会となりました。

そのほかのこと

ここまででまとまりないとはいえ、書きたいことを書ききったので、そのほかに気づいたことや感想を雑多に書いていきます。

時間全体の使い方大事!チーム作りも含めてゲーム作りなのかも?

このSBGJは、「ゲームジャム」という性質のため、その場で即席のチームのメンバーと一緒にゲームを作っていきます。
ひととなりがわからないまま、「ゲームを作る」という共通目標だけで突っ走ることの難しさを感じました。
他のメンバーがどれくらいの理解を持っていて、議論やそもそもの前提が共有できているかどうかは、いつも一緒に何かをしている人とワークするのとは全然違っていて、プロセスはあっちに行ったり、こっちに行ったりしました。
リーダーシップを誰が取るか、決裁権は誰が持っているか、なども曖昧なので本当に不思議暗中模索が続きました。
とはいえここに時間をかけすぎるのも・・・
トータルのプロセスにおいては実はじっくり時間をかけた方が良い部分だったかもしれませんが、それに気づけるほどには経験が浅すぎました。
実際、集まったメンバーによっては、サッとできたかもしれませんしね。

「主体性」を発揮することはやっぱり大事

これも当たり前といえば当たり前なのですが、SBGJの2日間のプロセスの中でつい、今起こっているゲーム作りのプロセスが「自分ごと」でなくなってしまう瞬間が何度か現れました。

この大きな原因の1つは、「できてもできなくても仕方ないか」と投げやりな気持ちを持ってしまったことや、チームとしてテーマにしようとしていたことが、やっぱり「自分のもの」ではなく「人が考えたもの」のまま終わってしまったからかもしれません。

「主体性」は定義が難しいとは思うのですが、ここでは「自分がなんとかしないと」という気持ちを起こして、実際に行動することであると考えます。
途中、自分ごとでなくなってしまった瞬間があったことは認めつつ、限られた時間の中でなんとか試行錯誤する気持ちを再度奮起できたのは、チームのみなさんが案外と柔和で、安全・安心な雰囲気だったからだと思います。

激突こそ起こらず、細かな諍いもなかったのは、なんとなくで最後まで時間が来てしまったこの結果を象徴しているかもしれませんが、改めて、「初めまして」の人たち同士の中で自分の「主体性をどこまで発揮させるか」を考えられたのは貴重な体験でした。

図書館で行うゲームジャムに可能性を感じた

それはそうと、会場や進行、SBGJ自体はとても素晴らしいイベントでした。
発起人の太田先生をはじめ、関わっていたみなさんのチームワークはもちろんのこと、くまもと森都心プラザの司書の皆さんも必死で盛り上げようとしていてすごく助けられました。

惜しむらくはやはり時間配分を上手できず、図書館であること=レファレンスを使えることを有効活用できなかったことです。

このSBGJでは、図書館の「レファレンスを育てる」をレギュレーションとして設定されていました。
実際に、プロセスの中で事実確認をしたいことや、もっと知りたいことを知るために司書の方に動いていただき、参考図書を出していただく、というところまでしたのですが、それをゲームデザインに反映することはできませんでした。

これは、ゲームデザインというプロセスの中に「調査」をどう組み込むのかという課題と繋がってきます。
先にも述べましたが、シリアスボードゲームではより一層「フレーバー」が重要です。
そのため、「ルール」「メカニクス」をデザインすることと、調査による「フレーバー」の補強は往還しながら進めていくという方法も取れると良かったのではないかと思いました。
こうすることで、「図書館」という場所を使った良さを発揮できたのだと思いますし、その可能性の片鱗は感じられました。

終わりに

夏の終わりに、すごく楽しみにしていたイベントでした。
実際、いち参加者としてSBGJを楽しむことができたと思います。
一介のゲームデザイナーとして、またゲームジャムを主催するものとして、ゲームの研究者として、さまざまな気づきを得られました。

メタ的な構造の話をすると、SBGJの参加者自体(出来上がったゲームをプレイする人ではなく)がこのゲームデザインのプロセスを通じて、テーマについて関心を深めるということは、実際僕に関しては達成できていました。

次回があるのであれば、ぜひまた参加したいです。
終わりになりますが、SBGJを企画・運営していただいた皆様ありがとうございました!

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