見出し画像

本質とルールの“本質“

先日新聞で「デフリンピック」の誘致に関する記事を読みました。
2025年の東京開催を目指している「全日本ろうあ連盟」の久松三二事務局長へのインタビューです。
聴覚における障害を持った方々が出場するデフリンピックですが、記事によると、第一回となるパリ大会が開かれたのは1924年とのこと。
障害者スポーツの国際的祭典として知られるパラリンピックの第一回開催は1960年。
なんとデフリンピックの方が36年も早く開催されていたのです。
オリンピック同様夏季大会、冬季大会がそれぞれ4年に1度開かれており、今年5月のブラジル大会には、日本を含めて73カ国・地域から約2,400人の選手が参加したとのことです。

競技は障害の無い人のスポーツとルールはほぼ同じ

私、名前は知っていても正直なところ観たことが無く、、、
この記事を読んで陸上やバレーなどの映像をYouTubeで観てみました。
すると、記事にあるように、普通のスポーツ競技大会の映像がそこにありました。

小さな配慮で乗り越える

スポーツにおける身体的差異は無い中で、異なる点と言うと、陸上競技のスタートを告げる音は光で合図。
柔道の「待て!」においては審判が口頭で告げるのではなく、選手の肩を叩いて意図を知らせるなどだそうです。
その行為、全くもって特別なことではないですよね。
騒音のうるさいところでは、こちらに振り向いてもらいたい時は声をかけるのではなく肩を叩いたりしますし、イベントの運営をしている時、キューを光で送ったこともあります。
通常の生活の中でもやっているようなことです。
そんなある意味些細なことで、一見大きなハードル、問題だと思っていたことが乗り越えられる。
言われてみると当たり前のことかもしれませんが、改めて「そうだよな〜」と思いました。

本質とルール

上記のようなちょっとした配慮によって、聴覚には障害があるかもしれないが、走力には大変な能力を持った人が、その能力を聴覚に障害が無い人と同じように存分に発揮出来る。
このことから、ふと、本質とルール/方法の関係という言葉が頭に浮かびました。
例えば陸上の100m走。
ここにおける本質は勿論「早く走る」こと。
どのくらい早く走れるのか?その能力を発揮することです。
そして、それを公平な環境で競わせる為にルール/方法が決められています。その中でスタートに関することがあります。
ヨーイ、ドン!のやり方です。「位置について」「用意」の後ピストルの号砲を合図にスタートです。
ちなみにその号砲から0.11秒未満に足がスターティングブロックから離れたらフライングとみなされます。
このルール/方法の中で、「ピストルの号砲を合図に」だけを変えただけで、「早く走る」というこの競技の“本質“をフラットに体現出来るのです。

日常の社会にも当てはまる

この本質とルール/やり方の関係、そして、上記のような捉え方、これは何もデフリンピックに限ったことではないな、と。
私たちが社会生活を送る中で、時にルール/方法に捉われて、本質たるものは何なのか?を見失ってしまうことがあるな、と自分自身を見ても思うのです。
「本質を生かすためにルール/方法がある」という“本質“を忘れてはいけないし、そういうスタンスを常に持って物事に臨まないと、と思ったのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?