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城下町の余韻、「歴史と文学の道」。

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清流「番匠川」の向こうに八幡山

通称「城山」の上には、「佐伯城跡」が残っています。

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番匠川を防衛上の「堀」と見立てると同時に、

海運の便」に優れた立地として、この山に城は築かれたとのこと。

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城山の足元には、小学校や歴史資料館があります。

ここはかつて、「四教堂(しこうどう)」という藩校があった場所。

四教堂は、1777年に創立しました。

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四教堂で教鞭をとっていた人物のひとりには、

1794年、日田から招かれた「松下筑陰」がいます。

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松下筑陰は、あの咸宜園を創立した「広瀬淡窓」の師です。

日田の咸宜園は江戸時代、日本最大級の私塾となり、

80年間で入門者は4800人までに及んだとされています。

今は、咸宜園跡は「日本遺産」にも指定されておりますね。

広瀬淡窓は佐伯にも訪れているとのこと。

四教堂を参考にしている部分も、きっとあるはずです。

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そんな広瀬淡窓の師、松下筑陰を招聘したのは、

四教堂を開いた学者大名、佐伯藩8代藩主の「毛利高標」公です。

高標と筑陰。

主君と家臣のふたりの親密な関係性を反映させたものがあります。

それは、三義井(さんぎせい)の「唖泉(あせん)」です。

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「三義井って、何?」ということですが・・・。

これは、藩医であった「今泉元甫(いまいずみげんぽ)」が、

私財を投じて、作った3つの井戸のことをいいます。

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その三義井のひとつ「唖泉」は、

この生け垣の向こう片岡邸敷地内にあります。

唖泉には、「高標公の題字」と「筑陰の碑文」が彫り込まれているのです.

「ナガレル泉、コレニ唖ト題ス。飲ム者ヲシテ唖タラシムルニアラス、モッテ多言ノワザワアイヲ戒ムー」(松下筑陰の銘文)

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そして、こちらも三義井のひとつ。「安井(あんせい)」です。

佐伯市文化財に指定されていますよ。

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佐伯の城下町は、もともと干潟であったため、

飲料水の確保に困っていたそうです。

この「安井」は、昭和初期まで使用され、大変重宝されたとのことです。

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佐伯の中心市街地は干潟だけあって、たしかにフラットな環境です。

この道を歩き、四教堂で学んだ人物に、外すことのできない方がおります。

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それは、矢野龍渓です。

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四教堂を開いた毛利高標公、そして、松下筑陰の思いが

およそ80年後に大きく実を結んだ、

その成果といえるのが、矢野龍渓です。

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矢野龍渓は、福沢諭吉の推薦を受け、

犬養毅、尾崎行雄と共に官吏として政府に送り込まれ、

その後、さまざまな活躍をすることとなります。

国木田独歩が佐伯に訪れるきっかけを作ったのも、矢野龍渓であります。

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歴史は、つながっていますね。

佐伯城が築城されなければ・・・、四教堂ができなければ・・・、

たくさんの偶然が重なって、この佐伯があるとしたら、

私たちもその偶然のひとつなのかもしれない、なんて思います。

そんな歴史と人を紡いだこの道を今日もまた誰かが歩いています。

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