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「作品至上主義」vs「作家至上主義」2023/03/05 ボボボブログ 雑日記

話の種

  • 芸術的表現を身につけるとあらゆる苦痛に価値を見出す道ができる、気がする

  • 日本とアメリカの筋トレに対する価値観の違い

  • 圧倒的な完成度の、誰かの何かの賜物をインプットしたとき訳も分からず急に泣いちゃう事がある。

アウトプットがインプットを歪曲する

インプットがアウトプットを変える例はたくさん思いつくだろう。だが今日はあえてその逆のプロセスをしっかりと見つめてみたい。

人はアウトプットをするようになるとインプットを前と同じように体験できなくなる。もう少し僕の主張に特化させるとすると、次のような言い方になる。
アウトプットする習慣がインプット体験を良くも悪くも歪曲してしまう。
そしてその中でもいくつかパターンがあると思う。

一つ目はその対象の制作裏を知っている場合。自分の持つ経験や知識のために見えなくていいところが見えてしまったり、制作者が誘導したい方向に自分がうまく誘導されなくなってしまう事がある。
パッと思い浮かぶ例は、映画のグリーンバックなど。映画撮影の舞台裏を見慣れている人は、あーこのシーンあそこからあそこまでがCGでこっからはリアルだろうな、だの、あーちょっと服に緑が反射しちゃってるよーーだのをいちいち考えたり気づいてしまうだろう。

二つ目はインプット対象が自分の制作の手掛かりになりそうな場合。インプットが自分の表現業にとって何かしらプラスに働くぞ、学ぶ事があるぞと判断した時、その芸術体験がふと情報処理に格落ちしてしまう気がする。
たとえば自分が役者だとして、映画を見ているとする。そんな時に、なるほどこういう状況だと手を握りしめながら泣いた方が確かに自然だな、とか考えていたら、もはやそこに動かす心は所在していないとまで言えるだろう。少なくとも自分はそんなに貪欲に学び吸収しようとしながら感動できるほど器用じゃない。

あ、これ使える、とか思うようになっちゃう。しばらく前に2ヶ月くらいラジオをやっていた事があるが、続けているうちに日常の面白い出来事がラジオで話せる!という引き出しに自動的に突っ込まれてしまっていた。常にどんな喩えツッコミをするか考えている粗品さんなんかはもう何十年も混じな状態なんだろう。けど、彼はその「ネタ採集モード」とそうではない、「ゆっくり何も気にせず食べるモード」の差分はあるのだろうか?

できたとしても、そんなこと考えずに映画を見れた方がよっぽど物語に入り込んで感動できる気がする。ただ例外として、その制作者が純粋に凄すぎて物語ではなくそっちに感動してしまうこともある。制作者の背景、制作工程の背景、制作の苦労に対する(同情ではなく)共感から込み上げる敬意、などなどたくさんあると思う。実際、改めて考えると自分もこっちで感動しちゃうことがかなりあると思う。画家の父親の背中を見て育ったからか分からないが、自分はむしろ製作者に対する感動の方が涙腺にくる事が多い気がしてきた。才能に想像を絶する努力を重ねた人がこんなに集まって協力したら、人間ってこんなにすごいものが作れんだなぁ、、っていうある種の人間愛、人間讃歌で感動することも多いかもしれない。いや、大学生になるまでは全然そうじゃなかったかもな。

インプットする姿勢

当たり前だが、アニメでも、映画でも、漫才でも、小説でも、どれもそれをインプットする大半がアニメ製作者じゃないし、映画制作スタッフでもないし、漫才師じゃないし、小説家でもない。いつの時代も、コックよりも食べにくる客の方が多いのだ。
そんな世界では確かに制作裏に感動する方が少数で、アブノーマルなのかもしれない。しかし、だからと言ってそれが悪いことなわけがないとも思う。作ってくれた人の苦労や努力に対して、感動するまでは行かなくても、ちょびっとでも想像する方がそれはちゃんと味わったことになるんじゃないのか?

しかしこれはこれで簡単に反論ができてしまう。制作者の背景を想像するのはむしろ作品への冒涜と言うこともできる。作品の純粋な視聴体験にその制作背景などのノイズを混じらせることは失礼である、と言う、ある意味「芸術至上主義」なのかもしれない。
一つ前の、創作の背景は知っていた方がいいという主張は、さっきの例に倣うなら「作家至上主義」なのかもしれない。
作り手を大切にしていなければ、いい芸術は生まれない。いい芸術が生まれなければ、作り手は生活できない。どっちに転んでも消費者は悲しみにくれちゃう。

↑この結論、なんか無理やりつけたけど、現場的な相関をかなり無視しているようで正直あんまりしっくり来ていない。けど、まぁそう捉えることもできるよね、程度で、、




民衆の大半が制作する時代

全人類芸術家時代、とでも言ってみるか、、?
もしAIの発展で民衆の大半が個人で制作できる時代が来たら、芸術は大衆性という足枷を外して、初めて真の、究極の芸術追求の旅に出られるのかもしれない。
現代にある枷を具体的に説明すると、「特定の芸術ジャンルを見慣れていない人たちでも楽しめる芸術を作らなければ制作を継続できない」、というものになる。
それを仮にAIの発展で大衆がその芸術ジャンルを見慣れていたら、上記の枷は外れるのではないかという主張。

はい、一個前の主張への反論です。それは民衆の芸術に対する感性が研ぎ澄まされるだけで、結局大衆受けする事が大きな創作の軸になることは間違い無いのではないでしょうか。

反論への反論です。少し前提と主張は変わってしまいますが、仮に社会構造が大きく変化したとします。ほとんどの人類が働く必要がなくなって、お金を使用すること、もしくは芸術制作が唯一の仕事になったとします(プラスアルファ働きたくて、特定の労働においてとてつもない才能がある人は働いてもいい)。そうなった場合、芸術分野に対して流れるお金の量が格段に増えます。そうなればその芸術が必要とする大衆ウケレベルも相対的に下がるため、事実上枷は外れたことになります。

どーだかなーーー、、、
やっぱり細かい実生活単位の事象の相関を見落としてるからこういう妄想って意味ないんかなぁ、、

と、わざわざ書き起こすあたり、今日はちょっとダウナーかもしれません。

では、また

斎家リック

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