エントロピーと神 2023/03/23 ボボボブログ 雑日記
今日は例のキリスト教学習グループと時間を過ごした。
珍しく授業形式だった。
そこで自分が残していったメモをそのまま貼り付けて見返しやすいようにちょこちょこタイトル付けて今日は終わる。
眠いので。
レクチャーのメモ
You’re always good
You never betray us
これを神に対して言っているよ。どういう意味合いで言っているのだろうか。
例えば、Good って、ここでは善、みたいな感覚で言ってる気がするが、ちゃんと聞いてみたい。
What we hope, reflect how we live.
失った物があるのが神の王国らしい
振り返り・考察
仏教・キリスト教比較
根拠、という項目で仏教と比較してみる。
救い方、というメソッドにおいてもどちらも違うアプローチで攻めているのでなんとも言えない
仏教(禅)は、目的を持たない事で、徹底的に排除する事で最大限の幸福を得て(多分違う)、不幸をないことにする。幸も不幸もない。空を全力で認める努力の過程。
キリスト教は、目的を持ち、願いを叶える事で空の、無価値であろう命に意味を最大限与えようとする。
キリスト教は矛的で、仏教は盾的なのかもしれない。
ここから導ける一つの考え方は、社会的生物として生きていく場合、基本的にはキリスト教的に目的をもって、それを叶えるように生きる。だが、もし、それが叶わない時、大きく何かを失った時、仏教的思想を経て全ての苦難、羨望、哀絶、悲嘆を洗い流す。って感じがいいのかなと。
エントロピーと神
確かに世界はエントロピーで崩れるものかもしれないけど、それに抗うのも人間性なのかもしれん。というか、生命体として生まれた時点で発生する義務みたいな物かもしれん。エントロピーへの抵抗は生き物の永遠のテーマなのか。
永遠を求めるのが生命の本質なら、完全性、恒久性を持った「神」が想像されるのも必然かもね
キリスト教のモヤっとポイント
3番目、hard to hope godっていう言い方。神的存在、この環境でいうキリスト教の世界観が全て本当に「ある」のが当たり前というか、前提になってるのが心苦しくない、、?と思う。
やっぱり根拠の薄い書物の教えを字面のまま受け取って、信じて、得た救いは軽く見えてしまう。
ただ、それを通して救われた人も億、兆といるので侮れない。
キリスト教ってずっと死を悪みたいに言ってるのがなーーなんかなーー
なぜ僕は探求する?
「いい人」になるためのプロセスを楽しんでいる。その過程で宗教、哲学、文学、科学の法則、などなどを取り入れている。なぜ自分はそんなことを楽しむようになったのか?志すようになったのか?
父親がアメリカ人なのもあって、小6くらいまではキリスト教系の教会に毎週行っていた。
別に深く信仰してはいなかったけど、悪いことをしたら地獄に行くと本気で思ってる人たちは実際いい人たちが多かったし、居心地は悪くなかった。
しかしある出来事で、教会の教えに従っていても悪い人はいるし、教会のことを知らなくても真から良い人なんてごまんといる、ということを学んだ。
それから教会には行かなくなったし、「いい人」とはなんなのか、どうすればなれるのかを考えていた。
神作り
自分の中の神を作ってみよーー
多分これって自分の直感とかに名前をつけるみたいな感覚でやっていけばうまくいくんじゃないか?
新しいのを作るという感覚だと、少し違うのかなと思う。
ってつまり要は自分の直感に従えってこと!?じゃあ一旦新しくすることは特にないか、、とりあえずそれでやってみよう、、
日記の愛着
自分が書いてきた日記、予想に反してあんまり自分の物感がない。トイレに流れる排泄物を自分のものと思わない的感覚。
一個一個、愛着を持って、丁寧に言葉を選んでいけば所有物感というか、自分から生まれた感が生まれると思っていたのだけど、そのレベルに至るまでちゃんと書いたのは体感で7個くらいしかない気がする。もう40個近く?書いてるはずなのに。
おわり
斎家リック
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