エコロジカル・アプローチ@バレーボール【7/16】「言語化」はどこまで可能か?
エコロジカル・アプローチ@バレーボール【6/16】「ゲームモデル」との関係の続きです。
前回、「起きるべき結果」を言語化することによって、プレイヤー自身が最適解を求めることが可能になり、1つ1つのプレーを検証することもできるようになるというメリットについて書きましたが、言語化にはデメリットもあることを忘れてはいけません。
言語よりも、環境から得られる情報に基づく探索が重要だというわけですが、それ以前に押さえておくべきことがあると考えています。
言語化するべきかどうか、それ以前に言語化できることかどうか
多くの人が、ある動作を身につけようとするとき「どのようにやればいいか」を先に知って、その通りにやろうとするのではないでしょうか?
その「やり方」を教わりたいと思うし、指導者はそれを教えられなければならないと思うでしょう。
料理のレシピの場合でいうと、レンジに入れて、決められたワット数で決められた時間かければ間違いなく出来上がるというものもあります。しかし、加熱して起きる色や泡立ちの変化などを見ながら、火加減や混ぜ方などを調節しなければならない場合の方が多いでしょうし、好みによっても「やり方」は様々に変わってくるでしょう。
「やり方」を正確に言語化するとはどういうことでしょうか?
例えば「スクワット」という動作で考えてみると、
自分の体重だけで行う場合でも、働く筋肉は大まかに言ってもハムストリング、大腿四頭筋、殿筋群、下腿三頭筋、脊柱起立筋群、腹筋群と様々なものがあり、同じ名前の筋肉でも部位によって働きが違うものもあります。スクワット動作で重心を下げていくときに、角度によって必要な力は刻々と変わっていきます。それらの筋肉をどのタイミングでどの程度興奮させればいいのか?それを答えられる人はいないというか、そもそも不可能だということが解るのではないでしょうか?体の各部分の長さや重さも一人ひとり違うし、「どの筋肉(のどの部分)をどのタイミングでどの程度興奮させればいいか」という答を知ることは、まず不可能なのです。もちろん、できる人には「こうやればできる」という感覚がありますが、それはあくまで一人ひとりの感覚でしかないということです。
では、どうやってその動作ができるようになるのでしょうか?
答は「筋肉をどう働かせるか」ではなく「結果として骨がどう動くか」で運動を捉えるしかない、ということになります(結果として起きることは精密にイメージすることが可能だし、空間座標を使えば数字を使って表すこともできます)。
「こんな風に筋肉を働かせたら、骨がこう動いた」という経験を様々な環境の中でたくさん積み重ねることで、「骨がこう動くような筋肉の働かせ方」のプログラムを脳が用意できるようになります。また、動作を行いながら、骨の動きを微妙に修正していくこともできます。
「こうやればできる」というのは「する」ことにフォーカスしていますが、多くの動作は、そう「なる」(結果としてそのような動きが生じる)ものなので、それを意識的に「しよう」とすれば余計におかしくなります。「するとなるとは大違い」なのです。
典型例がスパイクスイングで、肘はフォワードスイングによって振られて「上がってくる」ものなのに、「上げよう」とするとテイクバックの位置が高くなってしまい、腕を振った時にかえって下がってきます。「上げようとするから下がってくる」わけです。「サーキュラースイングにしよう」と意識すると「肘が円軌道を描くように動かそう」としてしまい、かえって手打ちになるというのもよくある現象です。
言語化せずに「こんな風に」とやって見せるという方法もあります。
小学校高学年くらいのいわゆるゴールデンエイジでは、「即時の習得」と言って動作を見ただけでそれをマネする力が高いと言われているので、そういう場合は特に有効でしょうが、見たものを一旦頭で整理して組み立て直すと、別のものになってしまう可能性が高くなるので注意が必要です。
「こうすればできる」というのは人それぞれの感覚です。
感覚そのものを、たとえば「こんな感じで」と言語化しても、動作そのものを正確に表すことからはほど遠いのです。「こんな感じで」というのは、動作を行った本人にとっては「他の表現があり得ないほど的確な言葉」かもしれませんが、他の人間がその言葉を聞いて同じ動作を再現できるわけはないのです(本人ですら、「同じような感じでやろうとしても上手くいかない」ことは普通にあります)。
それは、「そのような感じでやったら上手くいった」というのは様々な背景の上で成り立つものであり、むしろその「背景」の方が問題だからです。たとえば、「やり投げの槍が遠くまで飛ぶ」といった特定の「物理現象」レベルであっても、「こうすれば飛ぶ」という動作感覚が「変化する環境と、変化する自分」のある特定の状況において成り立っていただけであり、「変化する環境と、変化する自分」が微妙に変わっただけで成り立たなくなったりします。
どのようにして動作は身についていくのか、エコロジカル・アプローチの書籍では、次のように説明されています。
「こうすれば飛ぶ」というのは「特定の正解」なわけで、それを与えることに意味はないばかりか、マイナスと考えられます。プレイヤーが真に必要としているのは「自分で、その時の自分自身の、その場での解を出せる力」だということですね。
「動作を学ぶことを学ぶ(Learn to Learn to Move)」という言葉が紹介されていますが、私のバックグラウンドであるフェルデンクライス・メソッドでも「学び方を学ぶ(Learn how to Learn)」という言い方で、最も基本となるコンセプトに位置づけています。
「学び方」は学ぶことができます。
やり方を自ら探索する、その探す「手順」つまり、練習環境の設定の仕方は言語化が可能でしょう。しかし、実際のその動作の「やり方」は言語化できないと考えた方がいいということではないでしょうか?
バレーボールに関する記事を執筆しています。バレーボーラーにとって有益な情報を提供することをコンセプトにしています。