見出し画像

幸せとは何か?

幸せとは何か?

それはきっと、誰もが一度は考えたことのあるテーマであり、そして、誰もが人生の中で追い求め続けるものであると思う。

自分はまだ大して人生を生きているわけでも、大層な人生を歩んできたわけでもないが、自分の中で定まりつつある"幸せ"の答えがある。

私が思うに、幸せとは、"幸せを感じられる心を作ること"。"今あるがままを受け入れられること"である。

幸せというものには様々な形があり、100人いれば100通りの幸せの形があるだろう。

富や名声を手に入れて金銭的にも豊かな生活を送ることが幸せの人、素敵な人と結婚して何不自由無い生活を送ることが幸せであると思う人、自分の思う美を追求して美しい姿のまま生涯をとげることが幸せだと感じる人。それはどんな答えであろうと、正しいも間違いもない筈だ。

だが私の思う幸せとは、将来のビジョンでも何不自由ない生活でも、富や外見といった目に見えてわかる豊かさでもない。

唯今あるがまま全てを受け入れ、それに感謝できる心が存在しうること、"幸せを感じられる心"を育てることだ。

私はこの心を育てることは、そう思える心の状態は、何があっても揺るがない、揺るぎない幸福に繋がると思っている。

人間の欲望というものは際限を知らない。

どんなに欲しいものを手に入れたところで、また次の欲しいものが見つかる。際限のない欲は、存在しなければ人として向上することも、社会や文明が発展を遂げることもなかったかもしれない。そのため、必要がないと断言するつもりも、否定するつもりはない。

だが、この際限のない人間の欲望の上にある幸せは、時に揺らぎ、不安定で不確かなものになる。

そして世界は時に移り変わる。

"昨日の価値は今日の無価値"にもなりうる。

ないものねだりのマインドを捨て、今ある当たり前やありのままの自分を受け入れられた時、それを幸せであると感じられた時、やっと、決して揺らぐことのない幸せの境地に立てると思うのだ。

自分の座右の銘である詞がある。

amazarashiの"空っぽの空に潰される"の歌詞の一節。

"恒久的な欠落を愛してこその幸福だ"

"生まれついての恒久的な欠陥、人と比較し感じた劣等感と見えてしまった自分の欠落、いつかついてしまった治らない欠落たる傷、その全てを愛してこそ幸福というものは在るのだ"と。私はそう解釈した。

これはある種悟りに近いものであり、そこに至るまではなかなかに長い道のりであるのかもしれない。

だが、この世界は主観でできている。

自分自身の目というフィルターを通して見えたこの世界が、世界の全てであるのだ。すなわち、世界を作るのは自分次第であり、どう世界を捉えるのかも自分次第なのである。

壮大な映画や小説を読み終えたあとに、それを悲劇ととるか喜劇ととるかは読み手に委ねられるように、人生もまた同じではないか、と思う。

ここでまた、椎名林檎さんの"人生は夢だらけ"から、好きな一節を引用する。

"喉元過ぎれば ほら酸いも甘いも おいしいと"

"近寄れば悲しく 離れれば楽しく見えてくるでしょう"

これらの歌詞は、チャーリーチャップリンの"人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇である"という言葉を思い出させる。

自分が自分として存在する限り、主観の世界における中心も自分。世界をどう捉え、自身の心をどう作っていくか、それはすべて読み手次第であると。

私は、"自分のあるがままを受け入れる"、"今ある当たり前に感謝できる"ということ、

要するに"恒久的な欠落をも愛する"ということはひとつの揺るぎない、幸福というものの境地になりうるのではないか、と思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?