偽善の命②

八野が移った病院は琵琶湖の向こう側で、ずいぶんと離れてしまった。僕は八野が残した仕事を片付けてから向かうことにする。

その日は風が強く、高速道路を走っていると何度か大きくハンドルを取られた。余裕を持っていた自分の仕事もだんだんと増えて詰まってきて、結果として業務に追いかけ回されていた。


程良い怒りや憎しみはむしろ仕事を充実させる。
逆境で力を発揮してこそプロ。


今年の夏前、そんな考えが身を滅ぼすということをようやく知り、闘争本能や一部の勘違いしたプロ意識を脳から取り除いた。良くも悪くも仕事中は感情を捨てた。

そして秋、犠牲心も切り取って捨てた。今の自分には何が残っているのだろう。何のために働いて、何が嬉しくて生きているのだろうと思いながらも、死ぬ事が怖くてハンドルをしっかりと持っていた。


夕方4時頃、八野の仕事を終えると何も考えずに八野がいる病院に向かっていた。少し渋滞していて車が動きにくくなった時、ようやくわずかな疲れを身体が感じる。そして、その疲れがしつこく脳に真意を迫ってきた。

八野と病院で会ったところで、別に話したいことなんて何一つ無い。わざわざ僕が会いに行く必要なんてない。なんなら死んでしまえばいいのにとすら思っていた。それも一度ではない。今日だけでも10回以上は思っていたはずだ。

なぜここまで八野のことが嫌いになったのか、今ここまで嫌う理由があるのか。テールランプをぼんやりと見ながらそんなことを考え始めた。


ハローワークから今の会社に就職した直後、ラッキーパンチが立て続けに炸裂する。大きな成績を上げていくと1年も経たないうちに営業本部長に就任した。ラッキーパンチと誰よりも言いながら、ラッキーなんかではないと誰よりも思い込むようにしていた。

社歴だけでなく年齢も一番若かった僕の出世は会社の一族や先輩上司からも反感を買い、ほとんどの従業員から嫌われることになる。

「社歴も年齢もクソガキですけど、ずっと業界にはいましたから。荒削りなところはたくさんあるでしょうけど、売上は約束できますよ」

口ばかりで若手をいじめる奴らに媚びようという気は一切無く、大きなことを言ってはっきりと対立した。だけど、当時課長だった八野だけは違った。ずっと変わらずに接してくれた。

「お前、いきなり俺を超えるな。びっくりするやん。でも、俺を超えたからには俺の失敗は全部お前が責任持ってやれよ」

八野は当時から良い意味でも悪い意味でも欲が無く、良い意味でも悪い意味でもプライドが無かった。

そして、八野は面白いことが好きだった。いわゆる「お笑い」ではなく、日常の中の面白い話や面白事件が大好きだった。誰かが笑うなら多少の危険は喜んで冒す。自分が笑うことは一緒にいる人が笑うことと同じくらい好きな男。

僕と八野はそこがすごく似ていた。似ているというか全く同じだった。

「若手に一瞬で追い抜かれた古株」という面白物語の主演となった八野は、得意先の前で僕に敬語を使うことを面白がったりしていた。単純に笑いたいという気持ちだけが存在していて嫌味は感じられず、僕も得意先の方々も笑っていた。

二人で毎日馬鹿笑いをしていた。すぐに友達みたいになった。やらかしてしまった異性問題を共有したり、なぜか互いのスマホの暗証番号を知っていたり、離れていても常にラインでやりとりしていたりと、この二人は実は付き合っているとどこでも言われるくらい仲が良かった。

営業では、低姿勢というよりもあえてピエロ感ややられ役を持ち込むというスタイルもどこか似ていて、

「八野とゼリ沢のどっちに話したのか忘れちゃったんだけど…」

という声が得意先から何度も出たこともあった。思い返せば良い思い出がたくさんあった。そんなことに気づけば、八野に早く会いたいとすら思うようになっていた。


ようやく病院に着いて受付に向かうと、八野は手術中だと聞かされる。アルファベットが3つ並んだ部屋に八野がいて、その部屋の前で八野の奥さんと娘さんに会う。

10年程前、何度かイオンで会ったことがあった。娘さんはまだ小学生だった。今は確か看護師になったとか。すっかり大人の女性になっていた。

「八野さんの一番弟子のゼリ沢です。八野さんには仕事以外でもとても可愛がってもらっていまして…会社には何も言わずに勝手に来てしまいました」

そこには八野の上司や会社の取締役としてではなく、かつて八野の一番弟子と名乗っていた頃のゼリ沢がいた。

「喧嘩もたくさんしてしまい、ここ3年くらいは口も利いてなかったんですが…」

何も隠さずに話した。奥さんが涙を流していて、説明ができないくらい泣いていた。奥さんが娘さんの肩を軽く叩くと、娘さんが静かに言った。

「大動脈が切れたんです」



…続く

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