偽善の命④
僕が出世してから、会社の中でまともに会話をしてくれるのは会長以外では八野だけになった。八野だけが変わらず仲良く話してくれていた。
でも、僕を汚い手で引きずり下ろそうとする社員を叱ることも、はめられてしまった僕をかばうことも八野はしなかった。僕はそれで当然、それでいいと思っていた。大人の社会には親も先生もいなくていい。屈しないというよりも、全然気にならなかった。
得意先や仕入先が盛り上げてくれていたことや、高いところからまだ上を向いていく数字が孤独を一切感じさせなかった。
でもある時、事件が起きた。薄暗くなり始めた夕方、その日は仕事が早く終わり、会社から少し離れた駐車場に営業車を片付けて自家用車に乗り換えて帰宅する。
営業車をバックで入れようとした時、若い女性がスマホを触りながら自転車に乗って近づいてきた。過ぎ去るまで止まって待っていると、女性は僕が乗る営業車に衝突ギリギリで気づき、営業車の後ろでバランスを崩して自転車を止め、スマホを落とした。ぶつかった感覚はなかった。
「大丈夫ですか?」
営業車から出て声をかけた。
「すいません、大丈夫です」
女性はスマホを拾うと自転車に乗ってそのまますぐに姿を消した。
危なかった。
何が危なかったというと、先に仕事を終えた社員達が駐車場で屯していて、ずっと僕を見ていた。こんな奴らの前で事故なんてしたら、大変なことになると思った。
営業車を片付けて自家用車で帰る。その間に挨拶はお互いなかった。いつものことだった。何もなかった。僕が帰るまでは何もなかった。
僕が帰った後、社員達はひき逃げと騒ぎ出し、警察に通報。若い女性は近所に住んでいて、その人の家にまで押しかけたそうだ。安心して帰った僕はその直後にひき逃げ犯になった。
やがて呼び出された会長が騒ぎを治め、何事もなく事件は終わった。何が辛かったかというと、その従業員達の中に八野もいた。
数日後に退職届を書いた。逃げるつもりなんてなかった。ただ、会社に迷惑をかけたくなかった。退職や再就職はユニフォームが変わるくらいの感覚しかなくて、僕はなんとも思っていなかった。むしろ別の会社なら身内の流れ弾だけで蜂の巣になることもないだろうし、むしろ良い機会だとも思った。
会長は僕の退職を許さなかった。他の従業員も同じだった。なぜなら一人が抱える業務が大きく増えるから。仕事嫌いの八野も同じ意見だったという。
それから八野とは口を利かなくなった。八野は争い事が嫌いで、その日が終わればそれでいいという考え。だから誰にも何も言わなかった。娘さんが学校を卒業し、就職してからは元から無かった意欲が完全に無くなっていた。
今なら、それくらいのことだとわかる。当時はそれが憎かった。憎くて仕方がなかった。そして、あの時の僕は八野に味方して欲しかったのかもしれない。それが単純にショックだった。たぶん口を利かなくなった理由なんてそれくらいだ。
会社の為に八野を立てて、その下で若い僕が走り続ければ良かった。それでも八野はきっと立たなかっただろう。だったらシンボルという名の上司でも先輩でもいい。後のことは僕が全部引き受けてやれば良かった。
病院へ向かう途中、涙が出てきた。粒ではなくて流れ出た。歯を食いしばればもっと流れた。30年以上この脳みそとこの身体をやっていれば、なぜ泣いているのかがすぐにわかる。
ゼリ沢って奴の身体は、悲しい時や嬉しい時の涙はせいぜい一粒二粒くらいしか出ない。むしろ基本的には出ない。人の涙を馬鹿にするような考えだって持っている。
悔しかった。悔しい時は涙が止まらなくなる。
八野には八野の為に涙を流す家族がいた。
僕はというと、少し前に家族を失い、最愛の息子と生き別れた。仕事は燃え尽きて今にも諦めそうになっている。離婚後に出会った新しい人とも結ばれなかった。裏切りの刃物を互いに持つ関係しか築けていない。そんな自分が情けなかった。
いつも自信を持って生きてきた。持つようにして生きていた。間違いないと信じていた。信じるようにしていた。なのに、今の自分への評価は偽善の二文字しか当てはまらず、この身体に残ったのは孤独の二文字だった。
悔しいから生きている。
なのに生きることがこんなにも悔しい。
八野の手術はずっと続いていた。八野の奥様と娘さんに、コンビニで買ったお茶とパン、ウィダーインゼリーを渡す。そして、御守りも。申し訳なさそうに謝る親子。
「これは八野さんからの教えでもあるんですよ。八野さんなら絶対に同じことをされていたと思います」
ある程度泣いてスッキリしたのか、とんでもなくてまずありえない嘘を優しい口調で話していた。
「あ、そうだ。ミサトさんって…奥様ですか?」
「はい…そうです」
「救急車を呼んでくれたお客様が言ってたんですが、八野さん、奥様のことを呼んでいたそうですよ」
なぜかそんな嘘もついた。八野の最後の言葉は「家族にバレないように煙草を隠してくれ」だったのに。
もし今日、偽善者の世界一を決める大会が開催されていたら、絶対に僕が優勝していたはずだ。技術点も演技構成点も最高得点で絶対に優勝していた。我ながらあまりにも美しく華麗だった。
その日の夜11時頃、娘さんから電話があった。とりあえず、命は助かったと。ただ、脳に後遺症が残り、リハビリが必要かもしれないと。
次の日、その情報は伏せたまま、知らないふりをして会社に行く。あくまで会社ではなく個人的に会いに行っただけということにして、病院に行ったことも黙っていた。
「八野さん、大丈夫でした?」
八野に会いに行くことも、仕事を引き受けることもしなかった社員が僕に言った。その社員の後ろで聞き耳を立てる他の社員。
「お前らって八野の飼い犬やんね?なんで飼い主のことを俺に聞くの?缶コーヒーを渡して頭を撫でてくれる新しい飼い主を探してるの?俺はそんなことしないよ?」
こんな事態にこんなことを言う奴は人間じゃない、最低だ。そんな空気が事務所に充満する。八野のことも会社のことも一切何もしなかった偽善者共に少し苛立った。
もし今日、偽善者の世界一を決める大会が開催されていたら、僕は残念ながら惨敗だったかもしれないと思った。
でも、八野の仕事と自分の仕事を担ぎ上げた時にふと思った。やっぱり開催日が今日だったとしても、優勝は僕だったかもしれない。
事務所で馬鹿なこと言ったのは、八野を偽善者の心配なんかに触れさせたくなかったからなのかもしれない…と、そんなことを思った。
数日後、八野の奥様から電話があった。
まだ薬が効いていて、時々頷いたりまぶたを開いたりする程度だけど意識は無事に戻り、奇跡的に後遺症が残ることもなく回復に向かっているとのことだった。
散々偽善者ぶった後、なぜか電話を切ってからわざとらしい大きめの舌打ちをした。
「あいつ、強チェリーでも引いたのかな」
そんなことを思った。
頭の中の整理をしたくて、最近の出来事をだらだらと書いていました。まだ八野(仮)からは連絡はないですが、奇跡的に助かったみたいです。電話を切ってから舌打ちをしたのは昨日のことです。
いつもありがとうございます。
はいほ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
…おしまい。
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