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ルッキズムと写真。僕が写真を好きになれない理由。

ルッキズムという言葉を最近聞き始めた。wikipediaで調べると外見の美醜によって人を差別することへの造語らしい。ポートレート撮影をしている者としても、このルッキズムは意識しておかなければいけないと思った。写真というのは、ルッキズムを助長するものであるからだ。

instagramのポートレート撮影のタグをみればわかるが被写体さんはみんな容姿が整っている。素直にかわいい、綺麗な人が多い。ある種異常とも思えるほどポートレート撮影は容姿の整った人に限定されている。

人は生まれてから3か月ほどで、美醜を判断するとの実験があったそうだ。可愛いや綺麗に惹かれるのは人の本能に密接に結びついている。そういった意味で、人が美人に惹かれるのは本能的なことだと言えるのかもしれない。

けれど、日常生活において外見ですべてが決まるわけではない。生活の場においては、可愛い人もブサイクな人もいて、僕自身いろんな人と付き合っていると、その人のさりげない仕草や発する言葉の声音、性格や気が合うかの方が大事になってきて、容姿はいつの間にか相手の中で占める割合が小さくなっている。

だけど、悲しいかな、こと写真に限っては見た目の割合が大きすぎるんだよね。写真だけじゃ、ほとんど外見の情報しかわからないんだもの。仕方がないとは思うけど、整っている人ばかりがいるinstagramのポートレート写真を見ていると悲しくなってくる。そもそも僕も容姿が整っているわけではないからね。写真があまり好きになれないのはこのあたりにあるのだろう。

しかし、容姿に惹かれてしまうのは本能に結びついているものだからなくせはしないし、多くの人が求めるのもわかる。僕も惹かれるし。

でも、とても興味深いものとして醜さがある。村上春樹が、美しさはどれも同じだが、醜さには個々に物語を含むと言っていた。僕らは、外見にとらわれるあまりに醜さの先にある物語に触れられていないのかもしれない。正直、飽きるくらいにinstagramのポートレート写真は表面の美しさを切り取るものばかり。

美しさの中にある美しさを、醜さの中にある美しさを、美しさの中にある醜さを、醜さの中にある醜さを。そんな物語を見ている側に伝える写真が、撮れたらいい。僕の撮りたい写真はきっとこんな感じだろう。

それが出来れば、僕は写真を好きになれる。


model instagram @natsu_._._portrait



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