[連載小説]アイス・スチール;チョコミント 六章 4話 ただのシックス・センス
4話 ただのシックス・センス
左足の故障は動かさなくても痛みが脈打ち、右肩は脱臼が再発。左肩も炎症をおこしている。
診療所に着いて気が緩んだせいか、脳内麻薬も働かなくなり、アイスの身体でまともに動くところはないといってよかった。
「すぐ終わらせたりしたら、つまらないですよね」
末武が持っていたハンドガンのマガジンを抜き、スライドを引いてチェンバーの弾も排莢した。完全に使えなくした銃を捨て、外科器具を収納したワゴンを物色する。
外科剪刀(ハサミ)をつかみ出した。一つをアイスの足元に滑らせてよこす。
ふらつく身体で立つアイスに、両極端の気分が入りまじった。
生き残れる確率が残った希望が半分。もう半分は悲観。
銃なら一瞬で決着がつくかもしれなかった。やられる側になったとしても、苦しむ時間は少なくてすむ。なのに道具は刃物になった。
末武とのあいだで実力差がないとしたら、小さな傷を重ねて致命傷に追い込む泥沼になる。倒すのも倒されるのも楽にはいかない。
アイスは末武の動きを追いつつ、細部を注視した。
左肩が濡れているように見えるのは、一太に撃たれた出血によるものだ。
黒スーツにダークカラーのシャツを着ているせいで、出血量がわからない。目の動きも足取りもしっかりしているところを見るに、失血によるダメージは少ないように見えた。
まさしく、怪我をしているとは思えない動きで末武が突っ込んでくる。
アイスはそばのスツールを蹴った。床をすべらせ、末武の足元へ。たいした障害にならない、秒単位の時間稼ぎ。
そのあいだに点滴スタンドをとった。片腕で支柱パイプを横薙ぎする。
側頭部を狙ったつもりが、炎症をおこしている左腕では力が入らない。スタンドの重量を操りきれず、末武の右ボディに流れる。あっさり掴まれた。
剪刀は右手に握っているだけだった。これで剪刀の間合いに持ち込まれたら、一方的に串刺しにされる。
といって、ほかに使えそうな武器はなかった。処置室にあるのは、左腕一本では扱えないドクターチェアやワゴンカートといった備品か、投げつけてダメージを与えるには軽すぎる器具ばかりだ。
奪いとったスタンドを放り出した末武が、ゆっくり歩み寄ってくる。
表情には、嘲りも、追い詰めているサディスティックな笑みもなかった。アイスがこの危機をどう切り抜けるのか、貪欲に観察する目だけがある。
手がなかった。
痛みが存在を主張する左足では、洗浄液のある流しが一万光年離れた場所に思える。
末武との間合いがなくなっていく。
アイスは距離をとろうと処置室のなかを後退る。出入り口の方に近づいた。
歩くたびに左足からの痛みが全身を刺す。脂汗がうき、呼吸が荒くなる。出口のそばまできたが、ここから走って逃げ出すのも無理。さて、いよいよ……
——⁉︎
あまりにかすかな音で、空耳かと思った。アイスの耳に入ったのは、いるはずのない人間の声だった。
数瞬迷う。けれど、巻き込みたくなくても頼るしか道がない。
アイスは突として身をひるがえした。
正面出入り口に向かってダッシュ。軋み折れそうな左足から意識を切り離して動いた。
倒れ込むようにしてドアを開ける。受付ロビーの外に文字どおり転び出た。
息が切れて声にならない。転んで床に這いつくばったまま、剪刀を右から左手に持ちかえた。
忙しない急テンポで床を叩く。金属とモリタル床がぶつかってたてる硬質な連続音が廊下に響く。
これにはさすがに苛立ったか。追ってきた末武が声を荒らげた。
「タップのつもりか⁉︎ 逃げてないでかかってこいよ、佐藤アインスレー!」
怒声をあげながら外科剪刀を持ち直す。床に這うアイスへの突き刺しに有効なアイスピックグリップに変え、
「この程度で終わりにさせるな、おれを幻滅させるな!」
反撃を期待するように、大きく右手を振りかぶった。
「アイスっ‼︎」
今日一日ですっかり汚れたケーシー白衣が、廊下の角から現れる。
グウィンが、手にあった白杖を床にそわせるアンダースローで投げた。
アイスの剪刀がたてた音にむかって、白状が床を滑ってくる。
しかし廊下の反響で位置をつかみづらかったのか、アイスがいる位置からずれた。意図を察した末武が阻もうとする。
アイスも跳ね起きる。が、二歩目の左で膝から崩れた。
その身体を飛び越え、末武が白杖へと殺到する。
末武の手が白杖へとのびた。
その先で、白杖が壁に当たって跳ね返った。イレギュラーな軌跡を描いて、末武の手をすり抜ける。
アイスは膝をついた体勢から左手をのばす。頭からダイブして起死回生の武器をつかみとった。
白杖を拾いあげた動きをとめないまま身体を反転する。
末武へと振り向きざま、白杖を横に薙いだ。
グウィン愛用のスチール・スティックが、風切音を鳴らして末武の足を襲う。
自分の足元は視界に入りにくい。回避が遅れた末武の左下腿部に、骨を砕く勢いのスチールが喰らい付いた。
血を吐くような声をあげて、末武が倒れ込む。
アイスは膝立ちでスティックを振り上げた。末武の頭へと振り下ろし——
途中で軌道をかえた。止めきれない白杖が床を叩く。
その床は末武のスーツで擦られて、べったりとした血の痕跡が残っていた。
末武が幽鬼のように、ゆらりと上体を起こす。ふらつきつつ立ち上がったものの、すぐに膝が崩れる。腹這いに倒れ込んだ。
「末武……?」
アイスは乱れる息の間から呼びかけた。
反応がない。末武の手から、剪刀がこぼれたままになっている。
アイスはぐったりした末武を仰向けにし、スーツの前をひろげようとした。
ダークカラーのジャケットとシャツが、赤みを帯びた深い黒に濡れ、身体に重くはりついている。上衣で吸い込み切れなかった大量の血液が、パンツまでぐっしょり濡らしていた。
そばにきたグウィンが、すぐに血臭の濃さに気づいた。
「ドクターはどこ⁉︎」
「スンさん呼んできて備品室に避難してる、早く!」
グウィンに白杖を手渡して頼んだ。
正面から見下ろした末武の顔は蒼白く、冷や汗が流れている。
「しっかりしろ、末武! あたしがわかる⁉︎」
頬をはたいても、ぼんやりした表情を返すだけだった。
首に指をあて脈を確かめる。弱く早い。呼吸も速くて浅い。ショック症状が出ていた。
なんという愚直。
動けるのだから、屋上からそのまま逃げればよかったのだ。闇治療を引き受けているところは他にもある。処置を優先させるべきなのに。
この機を逃せば、潜ったアイスを見つけられなくなると焦ったか。ただ決着をつけるためだけに診療所にきた。
焦ったのは銃槍を考えたせいもあるだろう。治療しても後遺症があらわれることがある。
この愚直さも、つくボスが違えばいい方向に発揮させて、まともな仕事で生きていけた……と考えるのは野暮だった。末武が思う最適の仕事は、末武でしか選べない。
末武の瞳が動いた。アイスの表情をみてとり、かすれた声で言う。
「同情ならごめんです。ここに寄り道したこと、後悔なんかしてません。弱そうなくせに古参でいる、佐藤アインスレーの本当の姿を見たかった。
姑息な手段で生き残ってるのなら、化けの皮を剥いでやるつもりでいましたよ」
「化けの皮をかぶってるほうが正解だ。剪刀をあたしにも渡した末武と違って、あたしは友人が大事にしてる道具を利用して、末武に反撃した。これまで生き延びてきたのは、この狡さがあるからだよ」
「そうです……あの白衣は、あなたを気にかけて駆けつけてきた。そこまで気にさせるものを白衣に……うえつけておいた……んです」
「お手のものだよ。<ABP倉庫>の人間関係を調整してただけはあるでしょ」
末武の意識を引きとめようと、悪役台詞を気どった。
「そういえば、このあたりの人間は……普段から恩を売っておいて、いざという時に役立て……いや、佐藤アインスレーはそんなこと……」
「サトーさん、場所あけて!」
救命救急バッグを手にしたスンが駆け寄ってきた。
「地面の下にあるから『冥土診療所』なんて呼ぶ人もいますけど死なせませんよ! 絶対たすけるから、あなたも頑張って!」
遠くから慌ただしい気配が近づいてくる。スンも備品室のなかから警備員室に電話をかけていた。駆けつけた警備員たちが看護師の補助にはいる。
*
足を進めるたびに靴先にぶつかるものがある。
グウィンは備品を踏んでしまわないよう慎重に歩いた。アイスと末武がやり合った診療所内は、壮絶な散らかり具合になっているらしかった。
出先からドクターが戻ってきて、末武が手術を受けていた。アイスはそのまま処置室で順番待ちの状態になっている。おとなしくしているというより精魂つきはてた様子で、診察ベッドに座り込んだまま動く気配がなくなった。
勝手知ったる診療所、グウィンは取ってきたタオルを手渡して訊いた。
「横にならなくて平気?」
「横になったら二〇年ぐらい起き上がれない気がして」
声が弱い。丸くなっているアイスの背中にふれたグウィンは、左肩に保冷剤を当ててねぎらった。
「処置でまた起きあがるのは億劫だもんね」
「ありがと。今回はグウィンにたすけてもらってばっかりだった」
「うぅん……ちょっと違うかな」
ちゃんと話したくて座ろうとしたが、ここのスツールは座面と床の色が似た色で、わかりにくいことを思い出した。
「ごめん。誘導したいけど腕を動かすのがつらくて」
「いいよ。立ったままのほうが保冷剤を固定しやすい」
こういうところにアイスは実によく気がつく。観察眼が鋭いことも職業柄必要だったのだろうけれど。
「さっきの話、気分的にはあたしもアイスに救われた。国でやってたこと投げ出して逃げてきたじゃない? 役立たずのうえに身勝手やった自己嫌悪が残ってる。誰かの役に立ったと思えると、気持ちが楽になるんだよ」
「その気持ちは嬉しいけど——」アイスの声音が低くなった。
「屋上に戻ってくるなんて暴挙だよ? ミオまで一緒だったし」
じとりとした目をむけてきた。正しくは、向けているんだろうなと感じた。見えなくても、呼吸や話す抑揚で表情はわかる。グウィンはすまして応えた。
「下りようとしたんだけど、エレベーターの箱が全然上がってこなくて。足が止まっている間に、ミオも考え直したんだと思う。怜佳さんが心配だから引き返したいって言い出した」
「そこでとめてよ。怜佳さん、爆発物もってたんだよ?」
「でも怜佳さんの目的は、報復より怒りを表明することだったと思う。だから少なくとも、アイスが残ってたら使わないだろうなって」
「性善でとらえるのがグウィンのいいとこなんだけど……」
「あたしにとっては怜佳さんより、アイスの仕事仲間のほうが要警戒だったよ? 暴力に麻痺してる人たちなんだから」
グウィンは屋上から逃げ出したくなかった。
味方になる怜佳の最優先はミオだ。そのために爆破を決行するなら、アイスの安全を犠牲にすることも考えられる。孤軍にしておきたくなかった。
それでも屋上から出たのは、一緒にいるとアイスの負担を増やしかねないからだ。
たまたま出会った整体師をたすけるために、故障を負うまでの無茶を——故障として残ったのは歳のせいだといって譲らないが——またやらないとも限らなかった。
アイスの意思をくんだものの、ミオが「戻ろう」と言い出したのは願ってもないこと。すぐにのった。
グウィンの脳裏には、故国の仲間の亡骸が在り続けている。そこにアイスが加わるかもしれないという怖れがあった。
悲惨な状況はもう見たくない。でも知らないうちに、そうなるのも厭だ。視認できないだけに、存在を膚《はだ》で感じられる安堵を欲した。
「それにしても、末武に追い詰められたピンチに駆けつけてくれたのは、虫の知らせでもあったの? ここは『あの美園マンション』だし」
九死に一生を得たアイスの安全を感じる時間が足りないまま、ランドリールームで別れてしまった。そこに覚えのある胸騒ぎがおこった。
なんてことないシックス・センスみたいなものだ。とはいえ、この直感もしくは予感がバカにできない体験があったから従った——ということを端折って、グウィンはわざと軽い調子で話した。
「単純に心配だったんだよ。アイスのことだから担架はイヤだとか言って無理してそうで。無事にたどり着いたか気になって見にいったら、たすける結果になった」
「ゴネたわけじゃなくて、担架で目立つのは……そこはいいとして」
話を雑に切りかえた。
「グウィンが屋上に戻ったのは、あたしを心配してのことだけ?」
「他意があるように聞こえるけど」
「ディオゴにボディを潰しそうな勢いのパンチを入れたの、もう仕返しっていうより、お礼参り? やり返す気で戻ってきたのかなって」
「まあ、そのとおり」隠すことでもない。あっさり認めた。
「一発ぐらいは殴っておきたかった」
「グウィンの手は大事な商売道具でしょ。そんなことに使わないで」
「アイスの長年の相棒だった人を殴るんだし。あたしなりの敬意をしめしたんだよ」
「イヤな敬意だこと」
そっけない応えの端にうかんだ声の色は……
グウィンのイメージ映像に、やわらかい微苦笑をうかべるアイスの顔が映し出される。
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