[小説]青と黒のチーズイーター 8章 パートナー 5話 サランへ〜愛してる〜

5話 サランへ~愛してる~

「こんなこと言えた義理じゃないんだが……」
 スガが遠慮がちに切り出した。唇をかみ、一拍おいて続けた。
「クドー巡査に頼みたいことがある」
「……え、あたし?」
 硬い表情にクドーは思わず背をのばす。
「おれの家族に連絡を入れる役目を引き受けてくれないか? いろいろと理解してくれている者にやってもらえたら……」
「ああ、ええですよ」
「え、あ……感謝する」
「ずいぶん軽く受けたけど、そんな簡単なことなの?」
 快諾してもらいながら、うろたえているスガに代わって、ルシアが訊いてきた。
 寝起きにパジャマを脱ぐような気安さでニットを脱いでいる。防弾ベストを外そうとしていた。
 夜とはいえ、遮るものがない屋上。ベストの下は下着しかないのに、手伝うリウも気にとめていない。ダニエラが何か言いたげな、でも無言になり、スガが視線を外した。
「たとえ事実でも、伝えた家族に逆恨みされたりしない?」
 ここで脱がない方が……と言うタイミングを逃してしまい、そのまま質問に答える。
「まあ、ときには」
「でも、引き受けるんだ。マリアはお人好しがすぎない?」
「生き残れていうて発破かけたんやし、そんぐらいやってもええやん」
「礼を言う。ただ……」
 頭を下げたスガが、思案顔で続けた。
「おれの弟のことをクドー巡査は『パートナー』と言った。きみにそこまで話した覚えはないが、どこで知ったんだ?」
「やっぱり、そうやったんですね」
「かまをかけたのか? あまりいい気分じゃないな……」
「当てずっぽうの引っ掛けやないですよ。あたしらを車で送るまえ、組織犯罪係の机で電話かけてはったでしょ? 盗み聞きする気はなかったんですけど、電話の相手に『サランへ』って言うたのが聞こえてしもて。コリアの言葉で『愛してる』いう意味ですよね」
「……家族や友人にもつかう言葉だ。弟に言ってもおかしくはない」
「ええ。けど、言うときの表情に違いが出たりしません? 親兄弟や友人のときと、人生のパートナーとで」
「おれは、そういう顔をしていたと……? 親や友人じゃなくて」
 クドーはうなずいた。
「あたしの主観ですけど。あと、養子はようある方法やて聞きますから。
 生活を安定させるのに、保障のこと考えんとかんとあかん。といって婚姻は狭い範囲の関係に限ってるし、ほかに法的な保障がある制度もあらへん。となったら養子縁組して、とりあえずの保障を用意しとくと。首突っ込んで訊いてくる人には、親類やいう建前つこて、一緒に住むこともできますし」
「…………」
「けど、残されるんが『弟』でも『パートナー』でも、スガさん落っことす気は全然なかったですよ。あえて『パートナー』で問い正したんは、大切なひとを思い出してほしかったからです」
 そして、理解している人間が周囲にいれば、生きようとする希望も出てくるかもしれないと。


 スガは、同僚に対して初めて、プライベートを話せると感じた。
「迎えがくるまで、言い訳を聞いてもらってもいいか……?」
 引っ張り上げてくれた住民たちは、いつの間にかいなくなっていた。感謝されるより、事情聴取から逃げたい気持ちを優先したとみえる。見ないフリをするのは、警ら課時代のスガもやっていたことだった。
 そんなでも通報だけは引き受けてくれたのか。クドーとリウが屋上から動く気配はなかった。
 立ったままでいるには疲れすぎている。スガは先に、そばに転がっていたプラスチック椅子を拾って、腰を落ち着けた。
「以前のおれが、絵に描いたような麻薬係の格好をしていたのを覚えてるか?」
「今日思い出したほどには、忘れてました」
 クドーが立ったままで答えた。
 座ったのは、逃げないし抵抗もしないスガのアピールでもあったのだが、反対側にいるリウも立ったままでいた。
「ヒゲを落として身ぎれいにしたのは、ドラッグ犯罪に関係するのがアウトローばかりではなくなったから——は建前だ。
 いちばんの理由は、パートナーの連れ子だよ。
 初めて会ったとき、こんな汚い格好の警官がいるはずないって言われたのがショックでね。子どもにも好きになってもらいたくて必死だった。長髪とヒゲは、組織係のボスから指示されてのことだったんだが、理屈をつけて逆らうほどに」
「そんな家族がいるのに、<モレリア・カルテル>と手を結ぼうとしてたの?」
 バインダーファイルを腕に抱えたダニエラが訊いた。
「子どもの身体が弱くて、空気のいい郊外で治療させてやる金がほしかった。組合から借りても余裕がない。オープンに相談できる相手もいなくて……」
 後悔の言葉しか浮かんでこなくなった。クローゼットにしていたことを話せば、少しは精神的に楽になるかと思ったが、愚行の再確認になってしまった。
「ちょっと訊いておきたい」
 ダニエラがバインダーファイルをさした。
「<モレリア・カルテル>から持ち出したネームリストをこの中に紛れ込ませた。気づいてたんじゃない?」
「やっぱり、そうだったか」
「どこでわかった?」
「手触りだ」
「ファイルの?」
 スガは、うなずいて続ける。
「充分な明かりがない裏道のうえに、デスクで使っている眼鏡がなかった。見えにくいぶん、手触りに敏感になったんだと思う。紙質の違いじゃないような……なんていうか妙な違和感を指先が感じた。ファイルそのものに細工して、隠してるんじゃないかと考えた」
「あの、手を止めてじっとしてたときだね」
「そうだ」
「けど、あんたは確かめようとしなかった」
「いまさらながら迷ったんだ。わずかな金と警官のアイデンティティを引き換えにできるのか、とか……」
 並んで立つダニエラとルシアを見た。
 その視線の意味することを汲んだのはルシアだった。
「……あたしたちのことを考えて、ためらったとか?」
「あるわけない。ルシアに銃口を突きつけたやつだよ?」
「証拠品がトランクルームにあるというのは嘘だな?」
 話をそらすように訊いたが、
「まさか、我が身を振り返って同情したの?」とダニエラ。追及が手厳しい。
「上から目線があったかもしれない……」
「まあ、そんなもんだよね。あんた警官だし、男だし」
「ダニー! 言い過ぎ」
「……ごめん」
「いや、その通りだと思う」
 スガは否定しない。
 アカデミーを出てポリスバッチを持った途端、特別な力を持ったように誤解する同期がいたし、「男になれ」と言っていた教官は、男は優れた者という認識からだろう。
 そういったことに引っかかりを覚えながら、特に差し障りなくやってこれたのは、自身の属性ゆえだ。
「トランクルームは時間稼ぎのでまかせだった」
 詫びの気持ちのあらわれか。塗装が剥げたダイニングチェアと、小さな縁台を拾ってきたダニエラが、ルシアとともに座りながら答えた。
「バインダーを利用したのは、紙書類なら紙の中に隠せってアドバイスもらったから。だから<モレリア・カルテル>から持ち出したネームリストや収支記録といったものを全部ばらして、ルシアのバインダーファイルのあいだに挟み込んだ」
「高城さんのファイルに貼り合わせていた?」
 スガは指が感じた違和感の正体を訊いた。
「あんたの繊細な指先が感じとったとおり、弱粘着ノリで貼り付けた。ファイルは大きさがばらばらだし、分量も多い。丁寧にめくらないと気づかないことに期待した。
 途中で投げ出したくなるほど面倒な作業だったけど、バカ兄弟をだませたことを思うとやった甲斐があった。書類馴れしてそうな手つきの、あんたに見られてる時には、冷や汗が出っぱなしだったけどね」
「もう一度、バイダーを見ても?」
 勘が当たったことを確かめてみたかったのだが、
「もう誰にもさわらせない」
「だな……」
 納得しながらも肩を落とした。
 後戻りできないところまで来てしまった自覚、焦燥、新しい副署長への対応策……あれこれがごちゃまぜになって、判断を鈍らせた。
 やってきた警官仕事のなかには「汚い」ものもある。<モレリア・カルテル>との関わりは、それらと比べものにならない気持ち悪さに戸惑ってもいた。
 ファイルの違和感に気づいても、確かめることに躊躇した。その理由をあらためて思い返してみる。
 密告者になってでも新しい生き方を目指したダニエラ折場カルヴァーリョと、どうなろうと彼女と離れようとしなかった高城ロペス・ルシア。ふたりのこれからを邪魔したくなかった〝甘さ〟なのか。
 あるいは、無意識のうちに終わりにしたいと思っていたかもしれない。
 パートナーとその子どものためなら、どんなことでもやれると思った。とんだ勘違いだった。
 どんなことでも出来る才など、なかった。
 パトカーのサイレン音が、地上から這いあがってくる。
 スガは、見えるはずのないパトカーのほうに顔をむけた。これまでなら、事件の渦中に飛び込むときや、一区切りついたときに聞く音だった。いまは、終止符をうつ音といったところか。
 終止符をうったのは人生にというより、悪事との関わりだ。やっと後ろめたい思いから解放されるかと思うと、口元がわずかに緩みさえした。
 警官としての人生は終わってしまったが、生きる支えは残っていると思いたかった。
 パートナーとその子どもから見捨てられるかもしれない。しかし、たとえ一時期でも、一緒に過ごせた記憶までなくなることはない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?