見出し画像

ヶ丘の女

世の中が「いざなぎ景気」に浮かれていた頃。
私がこの世に生を受けた街は関西のとある「○ヶ丘」というところだった。

全国には、「ヶ丘」とつく街の名前がちょくちょくある。
だが、なぜか今も別の街ではあるが「○ヶ丘」というところに住んでいる。
多分、この先、今の家から離れることなく、私は一生を「ヶ丘」で過ごすことになるのだろうと思う。

私が生まれた当時のヶ丘は、長屋が軒を連ねて建っていた戦前からある街並みだった。
私は母の実家で暮らし、祖父母と母の弟二人と日々を過ごしていた。
今でも、この当時の生活が大好きだった。
最近まで、この戦前からある長屋に私の母が住んでいたのだが、母と叔父が他界したことをきっかけに76年以上借りていた長屋とお別れをした。

当時、この長屋にお風呂はなく、私は銭湯へ通うのが日課だった。
近所に銭湯が3軒あり、今日はどこの銭湯へ行くんかな?と楽しみにしていたのを覚えている。

そして、この「ヶ丘」は、私にとってはパラダイスだった。

夏になると、毎月決まった数字の日に夜店が道を埋め尽くし、祖母からもらった50円を握りしめて夜店へ繰り出すのである。
それ以外にも、商店街が近くにあり、毎日保育園の帰り道にはたくさんのお店に並ぶ商品に心を踊らせていた。

お豆腐屋さんで飲む「冷やしあめ」
衣服やさんに吊るされている「キャラクターのハンカチ」
本屋さんに並ぶたくさんの「絵本」や「雑誌」
ケーキ屋さんのショーケースに並ぶ「ケーキ」や「ソフトクリーム」
鶏肉屋さんにある「もも肉のてりやき」
かどや食堂のショーケースにある「おはぎ」

ヶ丘には、私の好きなものがたくさんたくさんあった。
今思い出してもわくわくする。

そして、極めつけは、祖父が営んでいた「ラーメン屋さん」

この魅惑に勝てる日は皆無だった。
毎日、ラーメン鉢を持って働く祖父の横に立っては

「ラーメン食べたい」
「少しでいいから、ラーメン入れて」

とゴネていた。
が、祖母に叱られ毎日食べさせてもらうことは出来なかった。

ヶ丘では、ラーメン屋さんはうちだけだったので、夕方になると近所の人が鉢とお盆を持ってラーメンを買いに来ていた。
当時は店で食べるというよりは、作ったラーメンを出前ではなく自前で持って帰る人達ばかりだった。

実はこの祖父のラーメン屋さん、「屋号がない」のである。
軒先の赤い暖簾には「中華そば」としか書かれていなかった。

なのに、お店には毎日たくさんのお客さんがラーメンの鉢を持って来ていた。
ラーメン自体珍しい上に、祖父のラーメンは鶏ガラと豚骨がベースの醤油ラーメンで、あっさりした中華そばが主流な時代に、関西では比較的斬新なこってり系のラーメンだったのが人気の理由だったのかもしれない。

私は生まれた「ヶ丘」で、このラーメンに育てられた。
食の話だけではなく、生きていく上での生活もだ。

祖父母に育てられ、可愛がられ、当時はお兄ちゃんと呼んでいた叔父たちに遊んでもらい小学校の低学年まで、パラダイスヶ丘で好き放題のびのびと育っていた。

そう、この流れでもおわかりいただけたかもしれないが、私には父がいない。いないというより、そんな人がいるという存在は知ってるけど、全く知らない人なのである。
母は一応近所に存在していた。
そう、存在という言い方が非常に正しい。近くにいることも知っていたし、たまに会うこともあった。当然、母だと認識もしていた。
でも、当時は祖父母に育てていただいていた。

私は今でも祖父母が大好きだ。

育ててもらったのだから当然だと思うが、育ててもらっても感謝を出来ない事があるということも知っている。
それだけ、祖父母からは愛情だけを受けて育った。

祖父は他界したが、祖母は現在認知症になりホームに入っている。
祖母が少しでも長くこの世で私と同じ時を過ごせることを、今住んでいる
ニュー「ヶ丘」からホームに通いながら願っている日々である。

サポートいただきました資金は、アジアの子どもたちの図書館への寄付をさせていただきます。 世界中のこどもたちに本を届けたいです(*´ェ`*)