「…もしもそんな音楽があるとしたら、それがバッハなんじゃないかな。」
あるライブが終演して、まったりしていたら、ミュージシャンの一人が「今度バッハやるから聞きに来て」とフライヤーをお客さん達に見せていた。まだ全然弾けてない、と言いながら 笑。そんなに難曲ですかと聞くと、ほんとに難曲だ、と 笑。
バッハに挑戦したいミュージシャンは多いと思うし、私個人的には、和音をとても大切にする(…と私には感じられた)その人がバッハに行き着くのは当然のような気がしていて、苦戦だと言うのが意外だったのでつい、「でもこの前ナベサダもバッハやってたじゃないですか。」と、けしかけた。リンクしたのがそのナベサダのバッハ。思い返してみると、見ず知らずなのにホントに怖いもの知らずなのだけど。
すると…
「サダオさんがやるのと僕らがやるのでは全然意味が違うの。サダオさんがやるということは、みんなの指針になるということ。」
そして…
「指に覚えさせて弾いてしまうことはできるの。でもあくまでもジャズからのアプローチをしたい。
いつでもその場、その瞬間に、最も相応しい音を出す。それがジャズだしジャズのアドリブなのね。もし、その最も相応しい音が、どう判断しても昨日と同じ音なのだとしたら、アドリブが昨日と同じフレーズになることは構わないと思う。そういう意味ではすべての音楽がジャズだと言える。
もしも、何度アドリブをしようとしても、何度やっても他の音はあり得ない、そんな音楽があるとしたら。…それがバッハなんじゃないか。」
バッハ(バロック音楽)はリズムが出やすいのかな、シンコペーションを作りやすいのかな、だからジャズと仲良しなのかな、とか、そんなことしか考えないで口をきいていた自分に反省していたら、ようやく何の曲をやるのかが分かった。超難曲であった。ますます反省しているところに、
「聞きに来る???」
さて本番はどうなったかと言うと、ご本人は「始まってからの記憶がない。でも後で録音を聞いてみたら、楽譜にない音を弾いていた。つまりアドリブをやっていた」。
一方、聞いていた私のほうは、いつアドリブをしたのか記憶にない。後で録音を聞いてみると、確かにしていた。
どんなことにも、たったひとつの正解、なんてないと思うのだけど、この演奏のひとときは、ひとつの理想型、だったかもしれない。あるいは幸せな演奏。演者もお客もただひたすらに自分の愛を積み上げて、始まったらミスタッチとか失敗とか、後のこととか誰も何も考えていなかった。
私はアカデミックに芸術を学んだことはないけれど、この、今から20年前の「音楽体験」がそれからの私の「耳」を作り上げていったし、今でも私の「耳」の指針になり続けている。
ナベサダさんは、いったいどんな思いでこのライブに臨んだのかな。
演奏は2000年、ライブ録音。
“Sadao Plays Bach”
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