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なんとも微妙な感じで夢枕に立った祖父。

数年前ですが、母の姉が敗血症で緊急入院した時のことです。
(K伯母はその後、無事回復して退院しましたのでご安心ください)

すでに病院に来ていた母から連絡を受けて駆けつけると、K伯母は何時間か前にICUに入ったきり、処置と検査が続いていました。悶々と時間をやり過ごした後で現れた担当医師は、どうやら敗血症である、と言いました。
この病院にはその治療のための最先端設備があります、まずは様子を見ていきます、と説明する医師やスタッフたちは、緊迫した私や母とはどこか裏腹に、パッと明るい目つきというか、何か確信めいたものを体にみなぎらせているように感じました。それで、伯母は助かるのかもしれない、と思いました。けれど無機質なICUで対面してみると、すでに人工呼吸器が付けられて意識もなく、やはり楽観はできないように見えました。
でも医師の雰囲気では、どうも助かるのではないか……私はそんな分裂した気分のまま、どうすることも出来ないのでいったん帰宅したのです。

帰ってきても、やっぱり助からないかな、最後に話したのは何だっけ、もっと気の利いた事を話せばよかった……あれこれ考えるばかりで、夜が更けてベッドに入ってみても寝られるものではありません。ひたすら寝返りばかりうっていて、それでも少し、うつらうつらとしたらしく、夢をみました。

私は階段を上がっていました。
辺りはぼんやりとしていてはっきり見えないのですが、そこが、地元に昔からある木内デパートの階段だということははっきり分かりました。

木内デパートは、いわゆる昭和然としたデパートで、もう経営していませんが上階には今でいうレトロなデパートの洋食堂そのもの、といったレストランがありました。休日は家族で買い物、お昼はそのレストラン、屋上の遊具で遊んで、帰りには入口の生フルーツジュース。それが昭和の休日家族のお決まりコースでした。

夢の中で、私はその木内の階段を上り、レストランに行こうとしていました。

ふと見ると、祖父が立っていました。

祖父というのは、K伯母や母にとっての父ですが、もうとっくに亡くなっていて、黒縁の眼鏡に頭はバーコード。サザエさんの波平さんに似ていて、私はその祖父を「おじじ」と呼んでいました。

おじじは、生前には見たこともない真っ白い背広の上下を着て、煌々と光を放っていました。顔は亡くなった当時の、80代のおじじでしたが、なぜか、体つきはほっそりと背筋もピンとして若々しいのです。
20代の体の上に、波平さんの顔を付けたおじじ。漫画のようでした。
そして表情ひとつ変えずに、

「Kが入院したって?……ほほぅ」

そうだよ、と私は答えましたが、内心ひどく混乱していました。どうしておじじがいるんだろう、おじじは、死ななったっけ?まだ生きていたっけ?
ひどく混乱しました。とっくに閉まっているはずの木内のレストランには何とも思わないのに、おじじに対面していることにだけ混乱するというのもおかしな話ですが。とにかくおじじと話したのはその一言だけで、あとは混乱しているうちに、目が覚めました。

翌日、鬱々としながら母と再び病院へ向かう途中、夢のことを話しました。

私「夕べ、おじじの夢を見たよ」
母「え!?父さん何て言った!?」
私「Kが入院したって?って」
母「それから?」
私「……それだけ」
母「……」
私「……」

夢の話はそれっきり終わりました。

病院へ行ってみると、医師は昨日よりもさらにキリリと自信がみなぎっていて、伯母の容態は安定していました。
そして、素晴らしい医療とホスピタリティに守られて、みるみるうちに回復し、無事に退院しました。
意識がなかったので当然といえば当然ですが、伯母は倒れてからICUにいる間の記憶が何もなく、自分がいかに大変な状態だったかにも、その間に私たちがどれほど感情を揺さぶられていたかにも、いくら説明してもピンときていませんでした。

……私の見たおじじの夢は、もう話題にもなりませんでした。

先日、母と話していてこの入院の思い出になり、そう言えばおじじの夢を見てさ、と言うと母は、

「え!?」

完全に忘れていました。私の夢は忘れ去られていたのでした。

死んだ人が夢枕に立つ、と言う時、このには現実の世界に何かしら影響を及ぼしたと理解できるような、奇跡的な、感動的な、ありがたい言葉や何かが見出されていなければならないらしいです(笑)。特に何もないけれど、何となく出てきてた、というだけでは、それは何の意味もない単なる夢であるらしいです。


今思うと、あの時おじじを必要としていたのは他でもない、私だったのですね。ですから、私以外がおじじの夢をすぐ忘れるのも当然なのです。助かりたい伯母がおじじを思っていたのでもなく、母がおじじに願っていたのでもなく、伯母を助けたいおじじがそこにいたのでもないのです。無力で不安で心細かった私が、おじじを求めていて、夢に出てきてもらった、ということでしょうから。

生きていても死んでいても、その人が何をしてくれたかどうかなんてホントはどうでもよいのです。その存在だけで、実はいつまでも心強くてありがたいものです。
私が見たおじじの夢が、夢枕に立つという霊的な神秘的なものではなかったにしても、そして私が一方的に見た単なる夢だったとしても、あの夜、私は、もう死んではいても、おじじというその存在に、ひたすら頼っていたのです。そしてそれは夢として叶えられた、とも言えます。

人は死んでしまうと、必要とされない時には呆気なく忘れ去られてしまい、しかし必要になった時には強く強く思い出されて、忘れたくても忘れられないものですが、それは結局のところ、それだけで私たちの願いに100%応えてくれている、そういうことなのかもしれません。

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