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たとえば男が妊娠できるとして(妊娠9週/つわり)

つわりがひどい時期にちょうど重なるようにして、夫の仕事が忙しくなった。帰りは0時を過ぎることが多く、ひとり静かな家では孤独と不安が苦しさを増長させる。気を紛らわす策として、映画や漫画を漁ってみたが、集中力が続かない。switchのソフトを買ってからは(ゼルダの伝説を買ったよ!)ある程度は気を紛らわすことに成功したものの、やはり限界があり、早く帰ってきて、と縋るような気持ちで夫の帰りを待ち侘びる日々。

わたしの夫は優しい。家事はしなくていいよと言ってくれるし、ご飯だって自分でなんとかしてくれる。飲み会には行かず、家で酒も飲まず、仕事が終わればすぐに帰ってくる。この忙しさだって、あらかじめ分かっていたことだった。

それでも、どうしても、夫を恨めしく思う気持ちを止められなかった。

締め切り間近の仕事さえ出来ずに吐き気を抑えて横になり、出たかった打ち合わせをキャンセルして、トイレで涙と涎を流していると、いつもどおりに働ける夫が羨ましくて、忙しくできることが恨めしくて、そしてそう思ってしまう自分も器が小さい気がして。八つ当たりのかわりにわんわんと子どものように泣いた。望んだ妊娠なのに、誰もが耐えているつわりなのに、こんなことで夫を恨めしく思うなんて。どうして頑張れないのか、どうしてこんなに弱いのか、妊娠がうれしくないのか、大袈裟じゃないのか、叫びのようなわたしのLINEは夫にはひどい迷惑であろう、でも誰に話せば? …そんなふうにひどい気分に沈みそうになると、トンとあたたかな塊が、わたしに体温を分けてくれるのだった。犬の、月だ。

まだ遊びたいざかりなのに、わたしがトイレにしゃがみ込んでいればその膝に顎を置いて眠り、廊下で泣いているとその太ももにぴったりくっついて眠ってくれた。幼い彼女のなかにねむる小さな優しさが、唯一の灯りのようにあたたかく、抱きしめて泣くと、ふわふわの毛がぺたりと倒れる。それでも彼女は、なんにも気にしていないよという顔で遠くを見て、じっと一緒に時間を過ごしてくれた。きっとこの優しさを忘れないだろう、と思った。

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変化が訪れたのは、その暮らしに耐えきれなくなったころだった。

なんと、天井から水漏れしたのだ。

ダイニングの電気は使えず、石膏や板の臭いもぷんぷん充満して、その横で食べたくもない食事を貪るのはどうにも辛かった(しかも工事は2週間もかかると言う!)

そうして、わたしは実家に帰ることに決めたのだった。(ちなみに、母に4時間半かけて東京まで迎えにきてもらった。つわりがひどく体調にも不安があったし、妊娠初期の移動にはリスクが伴う。実際、新幹線に乗るだけでまだ発車もしていなかったのにぐるぐると眩暈がして大変だった。水漏れさえなければ耐え続けていたと思うが、帰る決断をして正解だったと今では思う)。

必死で吐き気を抑えながら帰った実家は、本当に沁みた。食べられるだけ食べなさい、と出してくれる栄養豊かな食事は、目にも心にも優しく、すこししか食べられなくても安心感がある。甘酒を食べなさい。デーツもいいってよ。プロセスチーズならいいみたい。母は経験則だけでなく、色々と調べてはあらゆる食事をこまめに出してくれて、頼れる母がいることを心から感謝した。

つわりは、病気ではない。でもだからと言って、支えなしに乗り切れるほど簡単でもない。気を紛らわし、孤独を癒やし、救ってくれる灯りがあればあるほど、乗り越えやすくなる。すべての妊婦に、なにかの支えの手があればいいなと思った。

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孤独と不安が癒えたぶん、気分はいくらかマシになったが、つわりの勢いはどんどん増して、顔色は白くなるばかりであった。

つらい、つらい。何度も口にしていると、父がしきりに「妊娠中の胎児は、人類の進化の過程を辿っているんだってよ。つわりはね、海から陸に上がる時の苦しみなんだって」と言ってくる。

どこでそんな論を聞いたのかしらないが、実際に胎児はお腹の中に芽生えたとき、はじめは尻尾があると言う。単細胞から、尻尾や水かきがあるような形に変わり、その後、両生類のような形に進化し、哺乳類になっていく……つまり人類の進化を辿っている、というのだ。これは、”反復説”と呼ばれている100年以上も前の説のようであった(正しいことはよくわかっていないので気になる方は調べてみてください)。

父に「つわりきつい」と言うと、必ずこの”反復説”を繰り返して、いや反復してくる。それはそれはしつこいくらいに言ってくるし、なんならちょっとドヤっている。ふふん、知らんかったやろう、と言いたげな眉毛をしている(ように見える)。つわり?そりゃお父さんは仕組みを知っとるぞと言いたげな口元をしている(ように見える)。

「進化の過程で、海から陸にあがるじゃろう。その時は苦しいじゃろう。だからつわりがあるんだってよ」

正しげな言い回しだが、これは明らかに「???」を残す論だ。

「例えばそうだとして、なんで胎児じゃなくてわたしが気持ち悪いのさ」とか「つわりがない人もいるけどそういう人はどうなんだ」とか悪態をちょっとつくと、父は「よくわからん。ま、なんにせよ、神秘的やのぉ〜」と”神秘”といえばなんでも許されると思っている口調で、逃げていく。

父が悪いわけではない。わかっている。それに100年前に”反復説”を唱えた人が悪いとも思わない。嘘だとも思わない。

だが、わたしに必要なのは、そんな論ではないのだ。
つわりが辛くなくなる方法。ただそれだけを求めている。すこしでいい。トイレに行かずに済む方法を、気持ちよく食べられる食事を、知りたいのだ。喉が渇いた時に喉が渇く仕組みを説明されてなんになる。「ふふん、喉ってのはさぁ、実際に渇いてるわけじゃないんだぜ?でも中枢神経が刺激されると、喉が渇いたように感じるわけ。神秘的だろ〜」と言われて、「はっは〜〜〜ん!!!あたいの喉は実際に渇いてたんじゃないんスね〜〜!!な〜〜るほど!!」と引き下がる人がどこにいよう。水だ、水をくれ。

父がなんども「不思議じゃのぉ〜」とか「わからんことが多いのぉ〜」とか、なんだか嬉しげにつぶやくものだから、だんだんと腹が立ち(何度も言うが、父が悪いわけではない)、父に聞いてみた。

「神秘的やろ。いいやろ。じゃあお父さんが、この”つわり”を体験して産めって言われたらどうよ」

父は「ははっ」と笑って1秒たりとも考えず、

「そりゃ、嫌じゃの」と言った。テレビを見ながら笑った。その横顔に"他人事"と彫ってしまおうかと思った。

一度、夫にも聞いてみたことがある。

「男女のどちらでも妊娠ができるようになって、選べるとしたら、妊娠したい?」

目の前の食事を、食べたいのに食べられず、苦い顔をしてげっそりした顔で夫に聞くと、夫はすこし狼狽して「えっ、いや、そんな突飛なこと聞かれても。考えたことないし」と言ったが、その顔には明らかに「嫌です」と書いてあった。今は若いからまだ取り繕うことを知っているが、父と同じ年齢になれば瞬時に「嫌じゃの」と言うだろう。

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ただ、本当に不思議なことに、こんなに文句ばかり言っているくせに、夫に今日から妊娠を任せて一生涯、一度も妊娠を体験しなくていいですよ。あなたは思い切りバリバリ働いて、妊娠中の夫のサポートをしてあげてくださいね!と言われたら、それはそれで嫌だ、と思ってしまう。いや、妊娠前なら「それでよろしく」と言っていたかもしれないが、つわりの真っ只中であっても、一度妊娠すると、この異様で奇跡的な体験は紛れもなくわたしに与えられたものなのだ、とも思えてくるのだ。("女"に与えられたものではない、妊娠は望めば誰でもできるものではなく、そのうえ妊娠中の体験も人それぞれ。だからこれは、"わたし"にあてがわれた特別な体験なのだ)

日に日に自分に起こる変化を感じられること、30年付き合ってきた身体が変わっていくこと、爆裂に辛い(と聞く)お産が待っていること、母乳という生命維持装置を持つこと。そのどれもが決して手放しで喜べることだけではないくせに、頭のどこかで「せっかく与えられたなら、自身で体験してみたい」とも思ってしまう。

それに。
もし夫が妊娠したとして。
わたしが全てサポートしなければならなかったら、どうだろう。
それはそれで結構辛いのではないか? 

理解できない苦しみと闘う夫を前に、呑気な気分を晒すと怒られるだろうから顔つきにも気を遣うだろう。自分はどこも悪くないのに酒も飲み会も残業も控えなくては(体裁的にも気分的にも)悪いような気持ちになって、楽しく働いて帰ってきても、できるかぎり疲れ切った顔を装うのではないだろうか。それで家へ帰るや否や、げっそり痩けた夫が泣きながら「遅い」と抱きついて、今日はトイレに長時間いたとか、中華そばはなぜか食べられたが冷麺は捨てたと聞かされても、ありがとうね、ありがとうね、と言い続けなくてはならない。さらに辛いのは、すこしでもサポートを失敗すれば(相手は機嫌が悪いので)「これだから女(男)は他人事よね」と、でかい主語で括られてしまう。うん、これもなかなか辛い。

むかし、母に「夫が仕事が変わって忙しくなるよ」と報告したら、
「それなら、さえりちゃん頑張ってね」と返事があった。

「いやいや、頑張るのは夫だよ」と返すと、こう言われた。

「サポートする側も体力がいるのよ」

たぶん、そういうことなんだろう。
妻が妊娠していてもサポートする気のない夫は論外だが、必死にサポートをしているつもりでも(わたしの夫のように)なぜか妻から恨めしく思われてしまう夫たち、たった一度の失言を根に持たれる夫たちにも、やっぱり同時に「おつかれさま」「がんばってくれてありがとう」と伝えたい。もちろん、わたしの夫にも。いまは自分のことで精一杯で、優しさも愛もぜんぶがスカスカになっているけれど、本当はわかっている。夫は優しいのだ。

今のところ、夫が代わりに妊娠できる世界は来そうにない。それまでは、このつわり期間を「わたしの特権だ」と捉えて味わうしかなさそうである。いくら神秘的じゃのぉ、と反復されようとも。いくらトイレで泣こうとも。……。いや、やっぱり日替わりとかで交代できないだろうか。できないよね。できないかぁ。

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妊娠9〜10週のメモを元に公開しています(現在は妊娠6ヶ月)。つわりのメモばかりがたくさん残っているあたり、本当になんとかして気を紛らわしたかったのだろうと思う。まだまだ続く辛い時期のメモ。幸せな時期の話も書くつもりなのでどうかお付き合いくださいね。

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