身体が未知の領域に突入した話
今年の9月下旬から、わたしの身体は未知の領域に突入した。
妊娠したのだ。
今は妊娠5ヶ月をすこし過ぎ、いわゆる安定期と呼ばれる時期になったところ。
欲しいと望んだ翌月に子を授かった友人も幾らかいたが、わたしたちはそう易々とは授からなかった。数年前に、子宮系の病気のために10年以上飲んできたピルを(体調不良の理由で突然)辞めていたから「いつできてもおかしくないな」と思っていたし、その後も今か今かと待ち望んでいたせいで「なんだか今月は授かった気がする」と何度も何度もまがいものの直感が働いたが、毎月ご丁寧に生理が来た。
こればかりは自分ではどうにもならないものだからゆったり構えましょう、と思っていたのは最初の数ヶ月だけで、あとはだいたい生理のたびに落ち込んで、夫と犬に慰めてもらったものだった。「妊娠していなかった」という落胆だけではなく、同時にやってくる重たい生理(ピルを飲めないというのはそういうことだ)は率直に言ってかなり堪えたし、通っていた不妊クリニックでの検査や医者に「今夜タイミングをとってください」と言われるのも苦痛で、体感としては実際の期間よりもずっと長かったような気がした。
もっともっと辛い人がいるのだから弱音を吐くわけには、と思う瞬間もあったが、辛さを誰かと比べるのは無意味だ。なんていったって、わたしはわたしとしてしか生きられないのだし、この辛さは確かに存在しているのだし。おなじように人に言えない大小様々な辛さを抱えている、子を望むすべての人と手を取り合って、抱きしめたい気持ちにも駆られた。
でも、とにもかくにも、授かった。
妊娠できそうな卵子の在庫を測る検査(正しくは、抗ミュラー管ホルモン=AMHという)もしていて、わたしの数値が30歳の平均を大幅に下回っていたものだから、医者は「この数値のなか、よく、なんとか拾って妊娠しましたね」と変な言い回しで祝った。こうして次回の検査をキャンセルして、わたしは不妊クリニックを後にしたのだった。
そこから、未知の日々がはじまった。
これまで自分の身体のことを(そこそこ)分かっているほうだという自負が、わたしにはあった。なんせ幼いころから、小さな不調が多い人生だったのだ。頭痛がする、お腹が痛い、便がゆるい、気持ちが悪い、めまいがする…etc. そんな時に、それがなんの理由なのか、だいたいの場合は思い当たる節があり、どんな風に痛いのかもきちんと説明できる。
胃がもたれないようにするには、夜22時以降食べないこと。貧血にならないためには、朝かならず何かを口にすること。生理痛がひどいときは、鎮痛剤が完全に切れてしまう前に次の服薬をすること……。自分なりの取扱説明書を持って、自分のコントロールをうまくして生きてきた。
それが30年目にして、自分の身体が、未知の領域へと突入してしまった。これは本当に思っているよりもずっとずっと恐ろしいことであった。
なま肉も食べていないのに食中毒になる、歩いているだけなのに突然気分がわるくなる、お腹が空いたと思って食事をしても喉をとおらず、何を食べても吐いてしまう。二日酔いまたは船酔いのような状態が2ヶ月休みなくつづき、寝ても寝ても眠たくて、普通に座っているだけなのに動悸で苦しい。すこし歩くと息切れがして、横になっているのにめまいがする。早くからお腹が大きく膨れて、ウエストが締まっている服ばかり持っているから着るものがない、胸がぐんぐん大きくなって服が当たるだけでビリビリ痛く、ブラジャーがひとつも合わない(しかもセクシーに大きくなるわけではない)、ニキビができまくる……。
一体、なんだ。
30年間で作ってきたわたしの“取扱説明書”は、いまやまったく意味をなさず、勝手にアップデートされた(しかも最悪な仕様に)。いきなり「女」から「母体」となったそのスピードの速さに慄く。そのうえ実感もないのだから「赤ちゃんのためにがんばる」と母にもなりきれない。「来年は、お母さんなんだね」と友人は言うが、その言葉が本当に自分に向けられたものなのか訝しく思いつづけてしまう。
神秘的な気持ちと、喜びと、現実的な苦痛が交互にやってきて、本当に忙しかった。
つわりが落ち着き、おどろくほど世界が明るく見えたころ。
季節が冬の入り口にたったころ。
おなかが膨らみ、いくら胃下垂のわたしでもありえない大きさになったころ。
お風呂の中で、ちいさな気泡をくっつけているおなかに手を当てて「ねえ、げんき?」と声をかけた。やっと実感とやらが湧いてきたのだ。
いまは外にでるたびに、ちいさく話しかける。
世界は美しいから、来年はいっしょに外を見ようね。あの風に、撫でられようね。夫と私と犬はみんな愉しい性質だよ、安心してね。しあわせな記憶を、たくさんつくろうね。ひとつひとつ心の中でちいさく約束をするたびに、実感の芽が育っていく。人はこうやって、心の準備をしていくのだろうなと思った。
妊娠における自分の変化はなによりも恐ろしく、
なによりも楽しみでもあって、
でもやっぱりまだ不安のほうが大きくもあって。
いったい、わたしの身体はどうなるのだろう。心はどうなるのだろう。働き方は、仕事は、夫との暮らしは、犬との暮らしは、どう変わっていくのだろう。なにもわからなくて、すべてが手探りで、ただ、この未知の日々がいつか愛おしくなるように、いつか零れて消えてしまわないように、少しずつ、そのままに書き残していきたいと思った。ここまで書きためたメモを頼りに、時に弱音に塗れたり、不安につぶれたりした日のことも残していきたい。
長くなりましたが、妊娠のご報告まで。
*
妊娠の記録は、「母体となった私」というマガジン名で更新します。
5月末出産予定なので、4月頭ごろまでは変わらずに働く予定です。また出産後も(体調と生活次第ではありますが)、身体が復活し次第、できる限り仕事に取り組むつもりです。お仕事、お待ちしております。
saeri908@gmail.com