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「作者の気持ちを答えなさい。」

国語のテストでよくある問い。

私は根っからの理系で、小学生の頃から国語のテストだけはいつもひどかった。
登場人物の気持ち、作者や筆者の気持ち…。
それは読み手が自由に感じ取っていいのでは。
正しく伝わらなかったときは作者や筆者の力不足ではないか。

実際に作者はそんなつもりで書いていない、と模範解答を否定している記事も少なくなく、とにかく国語のテストが嫌いだった。
国語力は必要ない、と言いたいのではなくて、国語力の測り方としてこう言った形のテストは違う、今でも私は思う。

それに、年頃の女の子になっても、恋愛ドラマや恋愛映画はあまり好きじゃなかった。
そんなにうまくとんとん拍子になるわけない、切ないストーリーでもそんな感動的で美化されるようなものは起こらない。
わりと冷めてる女の子だった。

けど最近ドラマや映画のなかで作者が伝えたいメッセージを受け取れるようになってきた。

『silent』
聴者とろう者の恋愛ドラマ。
色々ゴタゴタとあったけど、最終的に結ばれてよかった。
あのドラマを見て、こう受け取るのも間違いではない。
けど、ドラマや映画、小説やマンガ、こういう物語ってその先に作者の伝えたいことっていうのが必ずあって。

私の周りには幸か不幸かろう者がいないので、とてもドラマの世界が新鮮だった。
耳が聞こえないことに対して、かわいそう。
ドラマを見る前の私はそう思っていた。
けど、これって違うんじゃないかと思わせてくれたのがこのドラマ。
耳が聞こえる人でもいろんな性格の人がいて、どの人にも長所と短所があって、特徴があって。
その人にとって短所があるのって可哀想なことなのか、そもそも、その短所って「ダメ」なのか。
耳が聞こえないことって可哀想なことではなくて、その人の特徴の一つでしかなくて。

日本人同士なら日本語、アメリカ人同士なら英語を話すことに対して、羨ましいや可哀想という感情がないのと同様に、手話は可哀想なものではなく、コミュニケーションを取る上での手段の一つ。

どんな方法でコミュニケーションを取ってもいいけど、今の相手をまっすぐ見ること、心の耳を傾けること、そして受け入れること。さらにそこから伝えること。
今回は聴者とろう者を例として作られていたけど、もっと人と人の心のコミュニケーションの大切さっていうところに、作者は何かしらの想いがあるんじゃないかと。

他にも小さなメッセージは沢山転がっていて、「幸せ」って人によって全然違くて。
登場人物全員が「幸せ」の価値観が少しずつ違っていて、自分の思う「幸せ」と今置かれている環境や状況の中で、どうなったら自分は幸せと思えるのか、それは登場人物の数だけ方法があった。
だから幸せとは何か、人に教えてもらうのではなくて、自分で見つけていくもの。ただ、自分の幸せは近くにいる自分を想ってくれる人の方がよく分かっていたりして、そんな近くにいる大切な人たちが、自分の幸せとは何か、ヒントをくれたりする。

あとは、パズルのピースみたいに、自分が苦手な部分はパズルのピースで言う凹んでいる部分で、その分相手が出っ張りの部分となって自分とうまくハマって、自分とと近くにいてくれる人はそんなふうにうまくできていることを伝えてくれたり。

作者の気持ちを読み解くのも、恋愛ドラマも好きじゃなかった私にとって、このドラマでこれだけの作者の気持ちがストレートに感じて、人生の楽しみ方や学び方が少し増えた気がして、少し嬉しくなった。

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