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「ことばという詩 01」毎日ショートエッセー:古い羅針盤132章
自分は認知症では無いか?と疑う初歩の段階は、言葉の喪失では無かろうか。目の前の物質の命名が発せない。あれ、これ、想い出そうとしても中々上手く行かない。知り合いの名前もこの類だ。この社会はこうして言葉という媒体でしか上手にコミュニケーション出来ない構造になっているからだ。遠い古代の時代、人間は言葉を産んだ。命名から始まったと言えるだろう。そうして、アイデンティティの確保も可能になったはず。言葉という媒体とはそうした便宜的なものでしかない。故に、もっと原点に戻って、言葉以前の表現、あるいは深い捉え方が在って良いと氏は言う。そして、それこそが詩の本質なのだと。「ことばという戦慄: 言語隠喩論の詩的フィールドワーク」:野沢啓氏を読んでいる。
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