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小説『シェルター』第1回(序章)

未発表の長編小説の連載を始めました。

すでに書き上げて出版のタイミングを待っていた作品ですが、このご時世で出版までしばらく時間がかかりそうなので、これを機にこちらで少しずつ公開することに決めました。

今後有料化する可能性はありますが、当面は無料とします。
web仕様の体裁がととのったところから順次更新していきます。(無断転載禁止)


小説『シェルター』

                 佐伯紅緒

たぶんあなたはまだここに潜んでいるはずだと彼らは言う
地の底深く 
あるいはどこかの聖なる山だと
 
ーダイアン・ディ・プリマ『母たちへの祈り』


序章

「洋子ちゃん。きみ、誰か待っている人でもいるの?」
 
梅雨の晴れ間のある日の午後、カウンセラーの先生はわたしに言った。

陽当たりのいいカウンセリングルームは今日もとても静かだった。室内ではエアコンが低いうなり声をあげている。やわらかい低反発のソファの感触が眠気を誘う。外の庭には色とりどりのアジサイの花が咲いている。そしてその周りを、さっきからハチだかアブだかわからない虫がぶんぶん飛び回っていた。

わたしが黙ったままでいると、先生は続けて言った。

「洋子ちゃんを見てるとね、なんだかこう、親鳥が迎えに来るのを待ってる野鳥のヒナみたいに見えるんだ。
周りは誰も信用できない。でも、こうして身をちぢめて待っていれば、いつか誰かが自分を迎えに来てくれるんじゃないかってね。
もちろん、誰かを待つという、その行為自体は悪くない。人生には師匠が必要だし、きみはまだ若いからなおさらそういう人が必要だ。運が良ければきみはそういう人に巡り合えると思う。
だけどね、その前にどうかひとつだけ、聞いて欲しいことがある」

 先生はそう言うと、ひと呼吸置いてわたしを見た。

「こういう仕事をしてるとね、毎日いろんな人に会う。で、その人たちと話すうちに、ぼくが得たあるひとつの大事な経験則があるんだ。

それはね、むやみに誰かを盲信するのはひどく危険だということだ。 その人はいい人かも知れない。言っていることは正しいかも知れない。だけどね、たとえそうであっても何かが間違っている時がある」

部屋の隅でベルが鳴った。カウンセリング終了5分前だ。なのに、先生はいっこうに話を終わらせる気配がなかった。

「世の中には『いい人たち』がまったくの善意で始めたことが、下手をすると悪人が確信犯でやるよりたちが悪いことがある。

ぼくはそういう『いい人たち』の善意を信じてついていった結果、一生癒えない心の傷を負わされた人を大勢知っている。 
いずれもきみのようにまっすぐな、心のきれいな人たちだった。かれらの多くはもう戻らない。たとえ運よく再びもとの世界に戻ってこれたとしても、かれらが本来歩むべき人生はすでに失われてしまったんだ。
そして、かれらをそんな目に遭わせたのはその『いい人たち』じゃない。 本当に恐ろしいものはそのもっと向こう側にある」

 カウンセリング終了のアラームが鳴った。先生は言葉を切り、テーブルの上の大学ノートを手にとると、まっ白いページを開いてそこに鉛筆で大きく円を描いた。

「これが、ぼくらの生きる世界。 ほとんどの人が、基本的にはこの円の中で生きている。 そして、この円の中にいる限り、きみもぼくも安全だ。だけどね、じつはこの外にもうひとつ、まったく別の世界がある」

 そう言うと、先生は円のふちに今度は小さくドアを描いた。

「それは案外ぼくらのいる世界からすごく近いところにあって、世の中のほとんどの人はこのドアの存在を知らない。だけど、たまにこのドアに気づき、外へ出ていく人がある。

しかも、このドアの外の世界ときたらそれはもう魅力的で、いったんその存在に気づいたら飛び込まずにはいられない。
そしてぼくの予測では洋子ちゃん、きみは遠からずこのドアを開けることになると思う。

ぼくが恐れているのはね、洋子ちゃん、きみはひとたびこのドアを開けてしまったら最後、もう二度とこちらには戻ってこなくなるんじゃないかってことなんだ」

先生はそこで言葉を切り、まっすぐにわたしを見た。

わたしに英才教育とやらをほどこし、無理やりエスカレーター式の名門女子校にやったのは明らかに母の失敗だった。入学そうそう、ひと月もたたないうちにわたしはひきこもりになったからだ。

分不相応なお嬢様学校はそりの合わないクラスメートたちの巣窟だった。大企業の社長令嬢だの、官僚の娘だの、そういうのばっかりで、誰とも話が合わなかった。

もともと人づき合いの苦手なわたしがそんな環境になじむはずもなく、そもそも、あんな空間にこんな協調性のない人間を放り込めばどうなるか、そんなささいな想像力さえ持ちあわせなかった母をわたしは恨んだ。

学校へ行かなくなったわたしを母はカウンセリングルームに連れてきた。
週に一回、二時間。
椅子にじっと座らされるのは苦痛だったが、カウンセラーの先生自体は実はそんなに嫌いじゃなかった。カウンセリングの間に出る輸入物のクッキーもおいしくて、半分はそれを目当てに通っていたといっていい。

カウンセラーの先生はやせていて声が小さく、夏の終わりに育ちきれなかったうらなりのナスみたいな人だった。 気管支が弱いのか、ときおりつかまえた蝶が手の中で暴れるような音の咳をして、ちゃんと年を聞いたことはなかったが、顔だけ見れば意外と若く、しかも、かなり男前だった。
ちょっと顔のつくりが濃すぎるのがわたしの好みじゃなかったが、少なくとも今年44歳になるわたしの父よりずっといけている。

いつまで経っても若く美しくありたいという願いを捨てきれないわたしの母が、ひきこもりになったわたしのカウンセリングにここを選んだのもそのせいだ。ただ残念なのは、先生のその頭が、まだ若いのに雪をかぶったように真っ白だということだった。

初めてこのカウンセリングルームに来た日、わたしはつい先生のその白髪頭をじろじろと見てしまった。しかし先生は気を悪くする風もなく、そのわけを教えてくれた。

「昔、友達だと思っていた人にだまされてしまってね。信じられないくらいの額の借金を背負わされてしまったんだ。それを必死で返すうちに頭がこんなになっちゃって」

そんな体験を笑顔で語る先生の左手薬指に指輪はなく、それから借金を返せたのかどうか、そういえばわたしはまだ聞いていない。

先生は初対面のときに白髪頭になったわけを話してくれた以外は、基本的には自分についてはほとんど何も語らなかった。
いつもただ春の日のたんぽぽみたいにニコニコと笑っていて、へたをするとわたしが二時間まったく口をきかない時があっても、窓の外に咲くヒマワリの花を見ては、あれきれいだね、とか言うのだった。

 その先生が今、珍しく熱っぽく話しているのだった。
わたしが黙り込んでいると、先生は先を続けた。

「きみは生まれつきあの世界に通じるなにかを持っている。うまく説明できないけれど、ぼくにはそれがわかるんだ。
あの世界の連中はきみを大いに歓迎するだろうし、きみのほうも彼らを深く理解することができるだろう。
だけどね、洋子ちゃん、ぼくはきみにはあの世界に行って欲しくない。きみにはこの世界で地に足をつける人として生きていって欲しいんだ」

わたしは先生から視線をそらし、ノートに描かれたドアを見た。
なるほど、先生の言う通りだ。いまのわたしはそんなドアがあったらまず間違いなく開けてしまうだろう。だけど、もしそれを止めるんだったら、それなりの理由が欲しい。それがないなら無責任なことは一切言わないでほしい。

わたしはゆっくり顔を上げ、まっすぐ先生を見て言った。

「先生」
「はい」
「先生は、海かプールで溺れたことはありますか?」
「ないな」
「わたしはあります」とわたしは言った。
「小学校二年生の時、伊豆の海で溺れかけたんです。 背の立たないところでいきなり足がつって、 周りは誰も気づかなくて。 よく、テレビなんかで溺れた人がばちゃばちゃ暴れてるの、あんなのは嘘ですよ。本当に溺れている時の人ってもっとずっと静かなんです」

 先生は驚いた様子でわたしの顔を見つめていた。無理もない。 わたしがこのカウンセリングルームに来て以来、こんなにまとめてしゃべったのは初めてのことだったからだ。

「そのうち気管に水が入って、息ができなくなりました。 走馬燈っていうんでしょうか、ああいうときにこれまでの人生が頭をよぎるの、あれは本当にそうですね。今まで起こったことがいちどきに見えて、ああわたし死ぬんだ、って思いました。だけどその時、あるものがわたしを助けてくれたんです」

わたしはそこで言葉を切り、先生の顔を見た。

もしこの先生がこのとき持論をぐいぐい押しつけてくるようなやつだったら、わたしはまず間違いなくその言葉を無視したろう。言い返す気になったのは、少しはこの先生が好きだったからだ。

先生はしばらく考えていたが、やがて観念したように口を開いた。

「なんだったの?」
「カツオノエボシです」
「カツオノエボシ?」
「そうです」

わたしはうなずいた。

「別名電気クラゲとも呼ばれてる、大きな青いクラゲです。そのクラゲがぷかぷか浮いてて、青い風船みたいに見えたものだからわたし、思わずそれに力いっぱいしがみついちゃったんです。
そうしたらもちろん、わたしはクラゲに刺されてひどい目に遭いました。ネットで調べればわかりますが、カツオノエボシって猛毒なんです。さわると針から毒が出て、ショック死することもあるそうです。これがその時の傷あとです。お医者さんには命があっただけありがたいと思いなさいって言われました」

わたしはそう言うと、シャツの袖をまくり上げて先生に見せた。
手首の内側から二の腕にかけ、みみずが集団で這ったような傷あとがびっしり残っていた。

「だけどそのとき声が出て、それで助けが来たんです。先生に経験則があるなら、わたしにだってそれはあります。わたしのそれは、他につかまるものが何もなければカツオノエボシだって構わないってことです。

先生はいま、わたしに外の世界がどうとかドアがどうとかいろんなことをおっしゃいましたが、もしわたしが火事にでもあって、目の前にその変なドアしかなかったらどうするんですか? 先生はそういうことも全部含めて、わたしに何も信じるなっていうんですか?」

先生はなんといったらいいかわからないという顔をしていた。まるで、水たまりに放したオタマジャクシが翌朝干上がり、音符みたいになっているのを見てしまった子供のようだ。

「きみは、今いくつなんだっけ」
「8月で14歳になります」
「そう」

 先生は床に視線を据え、そのままの姿勢で黙りこんだ。

大人にしては上出来な反応だった。こんな時、適当なことを言いつくろって子供をごまかそうとする大人のなんと多いことか。けれども、先生はそうしなかった。かわりに先生は長い沈黙のあと、やがてわたしに頭を下げた。

「すまなかった。どうやらぼくは、きみにうかつなことを言ってしまったらしい」

 わたしはじっと黙っていた。すると先生はさらに言った。

「そう、今のぼくには、きみにカツオノエボシ以上のものを出せる自信はない。そうである以上、ぼくはきみに何か言う資格はない。そうだね?」

 わたしは返事をしなかった。すると先生はその沈黙を肯定とうけとったのだろう、しばらくテーブルにひろげられたままのノートをじっと見ていたが、やがてふとなにかを思いついたように晴れ晴れとした表情になった。

「ねえ、きみに祝福をしてもいいかな」
「祝福?」
「そう」先生は笑顔で言った。

「ほら、よく教会なんかで牧師さんが信者の人にやるだろう? ぼくはクリスチャンではないけど、ごくたまにむしょうに誰かに祝福を授けたくなる時があるんだ。今がそうだ。

長年こういう仕事をしていると、もうこの人に必要なのは祝福しかないという時がある。洋子ちゃん、きみには無限の可能性がある。ぼくはそれを知っている。だけど、きみのその生き方は、よほど運命の女神さまの機嫌をとっておかなければかなわない生き方だよ。ひとつ間違えば身の破滅、へたをすれば命とりだ。

気休めかも知れないが、そういう人には目に見えないものの祝福が必要なんだ。きみが人生の節目節目で正しい選択ができるよう、悪しきものの誘惑にうち勝つことができるよう、ぼくはきみに精いっぱいの祝福を授けたい。どうかな?」 

 今度はこちらが黙り込む番だった。わたしは救いを求めるように窓の外の景色を見た。 

庭には色とりどりのアジサイの花が咲き、たがいに研を競っている。白にブルー、青紫に赤紫、それらの大輪の花がみな、いっせいにこちらを向いている。まるで人の顔みたいだ。そのまわりをとり囲むつやのあるふかみどりの葉の上を、一匹のカタツムリがのっそりと這っている。
ふいにどこからか鳥が舞い降り、そのカタツムリをついばみ飛び去るのを見た時、わたしはなぜか、自分にはもう逃げ場がないと思った。

ラベンダーのアロマが漂う、平日午後のカウンセリングルーム。ちゃんとした人たちはみな、会社か学校にいる時間だ。外からは廃品回収車のアナウンスが聞こえてくる。

ーうつらないテレビでも構いません。動かないパソコンでも構いません。

(洋子)

わたしは大きく息を吸い、自分に向かって問いかけた。おまえの人生、どこからどう見ても完全に詰んでるな。トラック一周目で早くもつまずき、この先どこへ行こうというのか? 

「……どうぞ」

わたしは視線を部屋に戻し、ゆっくりと頭を下げた。すると先生は嬉しそうな顔になり、わたしの頭に手を置いた。
そして、これ以上はないくらい、敬虔な口調で祈り始めたのだった。

「主よ、どうかこの子にあなたの祝福をお与えください。この子がこの先どんな目にあおうとも、いかなる罪を犯そうとも、大いなる慈悲をもってその罪をお許しください。そして来たるべき審判の日に、父と子と聖霊の御名(みな)
において、この子に救いがもたらされますよう。 アーメン」
 
     * *

神様のたぐいは信じないが、いま振り返れば先生はあのとき、なにか神託のようなものを得たのだと思う。
というのはー先生があのとき言ってくれた言葉は100%正しかったからだ。

つづく) 

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