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小説『シェルター』第2回(第1章・1)

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第1章 1 洋子

わたしはゆっくり顔を上げ、あたりをそっと見渡した。 そして何度か大きくまばたきし、両手を自分の目の前にかざした。

ーよかった、視力が元に戻っている。 立体感もちゃんとある。手のひらのしわも、手の甲に浮き出た血管もはっきり見える。

ああ、一時はどうなるかと思った。これからは街で白い杖をついている人を見かけたら絶対に親切にしよう。

ただ、いいニュースはそれだけだった。気づくと周囲は真っ白で、目を凝らしても何も見えない。 たった今まで目の前にあった渋谷スクランブル交差点は消えていて、代わりに目の前にあったのはただただ白い空間だった。

こういう夢を、わたしは今までにも何度か見たことがある。見渡す限りの白い空間にひとり閉じ込められている夢だ。

わたしはなぜか左手に携帯電話を持っている。それが、どういうわけかダンベルみたいにどんどん重くなっていく。なのに手から離れなくて、次第に腕が重くなる。

そうこうするうちに向こう側から何かが静かにやってくる。真っ白いだ円形の、巨大な卵みたいなものだ。それが、音もなくこちらに向かってじわじわ膨らみながら近づいてくる。

わたしはそれから逃げようとするが、手に持った携帯電話の重みのせいで動けない。 卵はやがて信じられないくらいの大きさにまで膨れ上がり、わたしはそれに押し潰されそうになったところで目を覚ます。

ただ、今はいつものあの夢とは少し様子が違っていた。なにかが襲ってくる気配はなく、足元はコンクリートの地面だ。わたしは急に不安になった。これはいつもの夢の別バージョンか。それとも、頭がおかしくなったのか?

その可能性はおおいにあった。なにしろ、一年以上もずっと部屋の中にひきこもっていたのだから。 精神にどんな異常をきたしても文句の言える頭じゃなかった。
でも、狂うって、こんな風に突然やってくるんだろうか? こんなことにならないよう、毎日瞑想したり呼吸法をやったりしてずっと頑張ってきたっていうのに。

そんなことを考えていると、どこか遠くで奇妙な音が聞こえた。モーターが高速で回転するような、ひどく耳障りな音だ。 だんだんこちらに近づいてくる。わたしは音のする方を見たが、あたりは真っ白で何も見えない。
わたしはそっと息を殺し、音の出どころをうかがった。

音はこちらに近づくにつれ、だんだん周波数を上げてきていた。そして、それがおそらく虫かの羽音かなにかだろうと見当をつけた時、霧の中からそれはいきなり正体を現した。

わたしがその姿を見て気絶しなかったのは奇跡だった。 それは、ハチとカマキリとトンボを足したような、奇怪で巨大な昆虫だった。
体長、約1メートル。身体は黒と黄色のまだら模様。目は金色の複眼で、背中には身体の倍はありそうな透明な羽がついている。
胴体はまるまると肥え太り、尻尾の先にはボールペンくらいのとがった針がついている。

それが、羽を高速ではばたかせ、わたしのすぐ目の前をぶんぶん滞空しているのだった。
距離はもう2メートルもない。
つまり、以上の状況から得た結論は、わたしにはもう逃げ場はないということだった。

昔から虫が苦手だった。特に、蛾や蝶といったたぐいの虫が一切だめだった。恥ずかしい話だったが、幼稚園の時、家族で行った箱根山で大きなヤママユガに追いかけられ、お漏らしをしたこともある。

ただ、それでいったら目の前の虫はまだましなほうだった。なんといっても羽が透明だし、あのミミズクの羽みたいな触角もない。 怖ろしいことに変わりはないが、粉ものよりはずっとましだ。

そのことが幸いした。わたしは勇気をふるい起こし、そっと半身の構えになった。
ひきこもりの14歳にしては出した結論は立派だった。わたしは思いきって腹をきめ、虫と戦うことにしたのである。

こんなとき、「戦う」という選択肢をわたしに与えてくれたのは祖母だった。今年でちょうど70歳になる、父方のわたしの祖母だ。

親戚でも変わり者と評判の人で、うちにもめったに来なかった。祖父はわたしが4歳の時に亡くなったが、なんでも祖母に負けないくらい変わった人だったらしい。
祖母の家は世田谷の閑静な住宅街にあった。彼女はその広い一軒家にたったひとりで住んでいたが、その家に小学一年生の夏、いちどだけ遊びに行ったことがある。

そのとき、わたしは祖母の家の縁側に座り、祖母がわたしに切ってくれた甘いスイカを食べていた。
カブトムシみたいに皮ぎりぎりのところまでスイカに食らいつくわたしを見て、祖母がにやにや笑いながらこう言った。

「生き汚い子だね、大変けっこう」

わたしは顔を上げ、祖母を見た。
なにか大事なことを言われた気がしたのだ。

そのあと祖母が煙草を買いに行くというので、わたしはなかば無理やりついていった。祖母に不思議な魅力を感じ、ふたりきりで話がしたかったのだ。

すると道中、首輪も紐もついていない大きな犬が向こうからやってきた。なんだか様子がおかしかった。口を開けてよだれをたらし、牙をむいてうなっている。 近くに飼い主がいる気配はない。
わたしは本能的な恐怖を感じ、とっさに祖母の影に隠れた。

「おばあちゃん、逃げよう」

ところが、祖母はその場に立ったまま、まったく逃げる様子がない。わたしはそれを不審に思い、もう一度逃げよう、と促した。しかし、祖母は逃げるどころか、逆に一歩前進した。

わたしはその顔を見て驚いた。祖母はなんと、うれしそうににやにや笑っていたのである。

「…おばあちゃん?」

まるで、戦いに行く前のネイティブアメリカンみたいな表情だった。その目はらんらんと光り輝き、明らかに起こったことを歓迎している。犬よりもまずその祖母の表情のほうが恐ろしかった。
わたしは一歩あとずさり、祖母から少し距離を置いた。

そのあとに起こったことをわたしは一生忘れない。次の瞬間、犬は地面を蹴り、祖母に襲いかかってきた。すると祖母が一声叫び、拳を前に突き出したのだ。

牙をむいた犬の口の中に、祖母の細い腕がふかぶかと吸い込まれていった。しかし祖母はまったくひるまず、逆に一歩前進した。そして、自分の腕を飲み込んだままの犬の頭を小脇に抱え込むと、その眉間に拳で強烈な一撃を食らわせたのである。

「おばあちゃん!」

犬のすさまじい絶叫があたりいちめんに響きわたった。 犬は祖母の腕を吐き出し、そのまま地面にどっと倒れた。

わたしは息をするのも忘れ、ただその光景を見守っていた。犬は横倒しになったまま、ひくひくと小刻みに震えている。しかし、やがてよろよろと起き上がり、情けない声を上げながらどこかへ走り去ってしまった。

わたしは犬が死ななかったことにほっとしながら祖母を見た。
すると、その顔はもういつも通りの涼しげな祖母だった。服の乱れを冷静に直し、なに食わぬ顔で立っている。あんな大立ち回りがあったというのに、息ひとつ切らしていない。

わたしが言葉を失っていると、祖母がにっこり笑って言った。

「さて、行こうかね」
「おばあちゃん、腕!」
「腕?」

祖母は服の袖をまくり、犬に噛まれた腕を見た。
わたしはまた驚いた。あんな勢いで噛まれたというのに、祖母の腕には傷あとひとつ残されていなかったのである。

「…どうして?」
「獣の牙には角度があるのよ。だから、それにさからわなければ傷にはならない」

祖母は淡々と説明した。

「そ...そうなの?」
「そうよ。それに噛まれても大丈夫、これくらいで死にゃあしないわ」
「...そんなあ」
「平気よ、しつけのなってないワンちゃんにちょっとごあいさつしただけよ。おばあちゃんはね、犬や猫の言葉がわかるし、おまけに魔法も使えるの」

祖母とわたしの母が相入れない第一の理由がこれだった。祖母はときどき、こういうわけのわからないことを言う人だったのである。

「オフクロは宇宙人だ」

父はよくそう言っていた。父もまた実の息子でありながら、稀代の変わり者である祖母のことを敬遠しているふしがあった。 そして始末が悪いことに、わたしはこの風変わりな祖母とたいそう似ていたらしいのである。

「いいこと、洋子」

わたしが呆然としていると、祖母がにやりと笑って言った。

「いい機会だからあんたにはひとつ、大事なことを教えたげる」
「...なに?」
「何かが襲ってきたときはね、むやみに逃げようとしたらだめよ。 反対に刺し違えて、なんてのもなし。一番いいのは相手を誘って、最初の一撃を呼び込むこと。できれば刺されるまで待つといいわ。そうやってね、相手の体勢が崩れたところでひといきにやり返すのよ」

いま考えれば、小学一年の孫にこんな教えを説く祖母は本当に変わっていたと思う。
しかし、わたしはそれでもこの風変わりな祖母のことが大好きだった。
人嫌いなので滅多に会えなかったが、わたしの周りにいる大人の中ではいちばん尊敬できる人だった。
ひきこもりになった時も、何度か祖母に相談しようと思ったほどだ。ただそれができなかったのは、ひとえにこんな自分を見られるのが恥ずかしかったからだった。

しかし今、この状況でなぜかあの時の祖母の言葉に従ってみようと思った。
おばあちゃんならきっと戦う。だったら、わたしもそうしよう。
学校のいじめには対処できなかったが、どうせこのままじゃほっといてもやられる。だったら、おばあちゃんに教わった通り、いちかばちかで勝負してみようじゃないか。

わたしは視線を前に向けたまま、そろそろと腕をおろした。そして、腰に巻きつけていた上着をほどき、ゆっくりと両手で掲げた。 チャンスはおそらく一度しかない。もしその機会を逃がしたら確実にわたしの負けだ。

奇怪な虫は顔をこちらに向け、目の前をホバリングしていた。金色の複眼をせわしなく動かし、空中でゆっくり上下している。
あたりには虫の体臭らしい、嫌な匂いが漂っている。くさった牛乳にお酢を混ぜたような、なんともいえない嫌な匂いだ。その匂いに吐き気をもよおしながら、わたしはそっと左足をひいた。

虫は感情のない目でこちらの様子をうかがっていた。少しでも隙を見せれば最後、たちまち襲いかかってきそうな勢いだった。腹の部分が大きくふくれあがり、今にもはちきれそうになっている。
それをじっと見ているうちに、ふいに尻尾の先からぽろり、と白くて丸いものが転がり落ちた。

卵だった。

それを見た瞬間、わたしは虫の魂胆に気づいてぞっとした。

ーこいつ、わたしの身体に自分の卵を産みつけようとしているんだ。
 
全身に鳥肌が立った。昔、昆虫図鑑で見たカリバチという虫のことを思い出したのだ。

カリバチは生きたクモに卵を産みつけ、孵(かえ)った幼虫はそのクモを餌にして成長する。
クモは毒で身体が麻痺しているので幼虫から逃げられない。 
そうやって、クモは生きながら身体の内側からじわじわと喰われていくのだ。

冗談じゃない。鳥肌が立った。
まだ人生なにも始まってないのに、クモのエサになるなんてごめんだ。

わたしは目の前の虫を刺激しないよう、ゆっくり右に数歩動いた。
虫は空中に静止したまま、正確にあとをついてくる。明らかに、こちらに対して攻撃を仕掛ける気だった。

わたしは虫から視線をそらさず、さらに数歩移動した。
虫はじりじりとこちらの動きに合わせ、複眼をあちこち動かしている。こちらの一瞬の隙をも逃さず、襲いかかるタイミングをうかがっている感じだった。

わたしは手にしていた上着をひろげ、闘牛士のマントのように目の前に掲げた。もうあまり時間はない。きっとあと数秒のうちに、こいつはわたしに襲いかかってくるだろう。
わたしはそのことを肌で感じ、全身で機をうかがった。

来るなら来い。おばあちゃんに言われた通り、一撃で仕留めてやる。逃げやしない、刺し違えもしない、相手の攻撃を受け入れてから、ひとおもいにやってやるんだ。

長いにらみ合いの末、突然、ぶん、と羽音がひときわ高く上がった。
それが戦いの合図だった。わたしは上着を大きく振り上げ、虫めがけて飛びかかった。

つづく) 

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