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月と姫の転生物語 第5話

1.情報屋の情け

 朝食を終えて部屋に戻ると、繭の姿はなかった。
 蟠(わだかま)りは残るが下手に構うほうが酷だ。携帯と必要最低限の荷物を持って、月詠の屋敷を出たのが午前八時。
 学校まであと十分というところで携帯が鳴った、午前八時十五分。

『おはよう、帝』

 携帯から流れる呑気な声。
 相手は藤宮だった。

「君がこの時間に起きているとは珍しいな」
『朝早くに来客があったんだ。情報屋なんて呼ばれているけど、この立場も楽じゃないね』
「早寝早起きは良いことだ、君のような引きこもりにとっては特に。して、何用か?」
『今からちょっと遊びに来てくれない?』
「……なにを言っている?」
『珍しい甘味をもらったんだ。共に食そう』
「冗談だろう? 後日また改めて伺う」
『日持ちしないんだよ、生菓子は鮮度が大切だろう?』
「生憎だが、本日は……」
『帝が姿を見せるなら、僕はその後、今日一日だけ外に出よう』
「…………は?」

 提示された条件に、呆れて声が漏れた。

「君の私情で俺の都合が……」

 しかし途中ではっとし、言葉を切る。

「外に出る? 君が? 藤宮の敷地を出て外に行くということか?」
『正に』
「引き篭りの君が、一般社会に?」
『今日一日だけだから、社会復帰するわけではないけれどね』
「藤宮の嫡男でありながら屋敷から一歩も出ず、その立場を利用して豪遊している君が?」
『相変わらず手厳しいなぁ、帝は』

 藤宮は平然としているが、これは一大事だ。
 あの藤宮が、十年間一度も外に出なかった、親や周りの者、御三家より位が高いお上様に言われても、引きこもっていた彼が。
 もしこれが本当なら、俺が藤宮を外に連れ出す機会を作ったなら、月詠の名誉となる。

「……わかった」

 短く返事をし、向かう先を藤宮家に変えた。

 藤宮の屋敷、東の客室。
 十畳の和室が二つ連なった無駄に広い部屋で、俺と藤宮は檜の一枚板机を挟んで向かい合っていた。
 俺が有する客間よりも質素な、床の間も飾り物もない部屋。

「急に呼び立ててすまないね」

 愉快そうに笑う藤宮に、俺は真顔で向き合う。

「君が外に出ると聞いた故、来訪した」
「うん、そうだね。約束は守るよ」
「ところで、俺は生菓子を食わされるために出向いたのだが、例のものは?」
「あぁ、あれ。先に食べちゃった」

 平然と笑う藤宮に、思わずぶっ倒れそうになった。
 いっそ倒れて救急車でも呼ばせたほうがよかったのではないか、目の前のこの男のために。

「君は、ふざけているのか?」
「怒らないでよ。以前より機嫌が悪くなっているね、月詠様と何かあった?」
「兄上とは……月詠の名を捨てても良い、と言われた」
「へぇ、それは過激だねぇ。名を捨てるようなことを何か?」
「知っているだろう、君を訪問したすぐ後のことだ」
「……へぇ」

 藤宮が目を細める。俺から得た情報を別のものと結びつけ、事実を確認しているのだろう。
 情報収集はもちろんだが、彼が情報屋と呼ばれる所以はそこではなく、むしろこの情報管理にあると言える。

「では、俺は帰る。菓子がないなら、君の用は済んだということで良いのだな?」
「終わったよ、僕からの用はね」

 立ち上がろうと腰をあげたが、藤宮の言葉で再び座布団に座り直した。

「帝、僕はね、来るもの拒まず去る者追わずの情報屋と呼ばれている」

 扇子を口元に当てながら、藤宮はくすくすと笑う。
 そういえば今日は、彼の手元に菓子袋が見当たらない。

「聞かれたことには正直に答えるよ。聞かれない限り、言わないけど」

 鼻から下が扇子に覆われているせいで藤宮の表情は見えない。

「さて、帝。帰るのなら玄関先まで送るよ?」

 試すような口調。
 俺は居住まいを正し、口角を上げた。

「今日は外に出る、と約束しただろう?」
「そうだったね。でも、そのタイミングは僕が決める」
「日が落ちるまでには頼む。君が外に出たとの目撃情報が欲しいのでな。さて藤宮、一つ聞きたいことがあるのだが、良いか?」
「もちろん」
「姫、夜武羽姫の今日一日の行動予定を教えて欲しい」
「お安い御用だよ」

 そう言うと、藤宮は机の下から一枚の紙を差し出した。紙面には、十分刻みのスケジュール表があった。誰の行動表とは書いてないが、何時に何人のお供を連れて何処へ行くなどの情報がこと細かく書かれている。

「よくもまぁ、このような情報を」
「機密をいつの間にか掴むのが僕の特技だからね」
「末恐ろしいな」
「ありがとう、立派な当主になれるよう頑張るよ」

 微笑む藤宮に、同じように笑顔を返して置いた。

「外に出るという約束、忘れてないよな?」

2.阿部

 午前九時から午後一時まで、姫は讃岐の家で育ての親や義兄である絋介に別れを告げる。
 讃岐の家でことをを起こす気はなかった。そこで失態をすれば、讃岐の家の者たちに迷惑がかかる。
 なにより、家族との時間を穏やかに過ごさせてやりたかった。
 考えたくはないが姫の意向によっては、もう二度と会えないのだから。

「よくよく考えたら、暇だな」

 午前十時前、学校校舎の旧階段の踊り場、小窓から校庭を眺めていた。
 生徒たちは授業中。
 旧階段を使う生徒は滅多にいない故、姫が学校に向かうまでの時間そこに隠れておくことにした。
 藤宮の情報によると、姫が学校に到着するのは午後から、あと三時間ある。

「姫を説得する練習でもしておくか? いや、話をして本意を聞き出せばいいだけだ。練習するほどのことではない」

 ふと、声を出していたことに気がついて立ち止まった。頭を壁に打ち付け、落ち着けと言い聞かせる。
 讃岐の家を出発したら連絡する、と絋介と示し合わせていた。
 何度も携帯の画面を見ているが、やはり連絡はない。

「月詠くん?」

 携帯を凝視していて、人影に気が付かなかった。
 声に振り返ると、階段の上に阿部が立っていた。

「うわぁ、月詠くんだ。久しぶりだね」

 人の良さそうな朗らかな顔で、阿部はポテポテと階段を降りてくる。
 姫の恋人選びの際、火鼠の皮衣を依頼された男だ。悪徳商人に偽物を掴まされ、呆気なく散っていったが。
 この男のせいで俺は、警察を機動して兄上に叱られた。

「元気してた?」
「休んでいた時の気分は最悪だったな」
「そうなんだぁ、元気でよかったね」

 こいつは人の話を聞いていないのか、もしくは俺ではない別の誰かと会話しているのか。
 怒る気力もなく、適当に相槌を打ってかわす。

「僕は腹が悪くて、保健室にいくところだったんだ」
「そうか、お大事に」
「少しくらいなら時間があるから、いいよ?」

 なにが良いのかわからないが、はいはいと頷いておいた。
 朗笑する阿部が、それでも話を続ける。

「さっき姫に会ったんだけど、相変わらず麗しいね」
「……姫?」
「あれだよ、かぐや姫。えっと、名前は確か……夜武羽姫さん!」

 思いもよらぬ名前が出て、俺は身体ごと阿部に向き直った。

「姫に会った? どこで?」
「教室の前で」
「……は?」
「相変わらず綺麗だけど、雰囲気変わったよね。お供の人の形相が怖くて話しかけることも叶わなかったし。そういえば姫が纏っていた衣の家紋、どこかで見たことあるような」

 宙を見上げる阿部の腕を、俺の両手が掴んだ。
 驚いた阿部は、不思議そうに俺を見つめる。

「なぜ姫が、ここへ?」
「さぁ? 自分の教室に向かっていたみたいだけど。厳格な雰囲気で、みんな廊下の隅に寄って姫のために道を開けててさ。えーっと、あの家紋どこのだっけ、剣が交差する」
「貴族のくせに、君はあの家紋を知らないのか?」
「僕の家はそんなに気位が高くないし、政治にも疎いんだ。月詠くんは知ってるの?」
「君は、御三家の存在を知っているか?」
「御三家? そりゃ知ってるよ、藤宮、東條、月詠……あれ? 月詠くんの名前って」
「君は正に阿呆なのか? そして覚えておけ、交差する剣は東城だ」

 説教をしてやりたいが、今はそれどころではない。阿部を押し除け、俺は階段を駆け上がった。
 背後から阿部の叫び声が聞こえたが、やはり気にかけてやる余裕はない。
 着信履歴から探し当てた【讃岐絋介】の番号に発信すると、ツーコール鳴らない内に通話が繋がった。

「どうなっている、絋介。たった今、姫が学校にいるとの情報を得たが」
『……帝、ごめん』

 小さく、消え入りそうな声。
 不審に思い、足を止めて通話先の相手と向き合う。

「絋介、今どこにいる?」
『トイレ、学校の』
「トイレ? それより、なぜこんなに早く学校にいる? 昼食まで讃岐の家で過ごす予定だっただろ?」
『うん、最後にみんなで昼ご飯食べようって言ってたんだけど、ナシになった。予定とは違うけど、早めに学友への挨拶を済ませるって』
「ならばなぜ、連絡をよこさなかった? なにかあればすぐに……」
『帝、もう無理だよ』
「無理? ……なにを、言っている?」
『羽姫が東城を拒否すれば、こっちの世界に残りたいって気持ちがあるなら取り戻せるって、帝言ったよな?』
「ああ、いくら東城でもそれは倫理に反する。もし本人の意思に反して軟禁するならば、他の御三家、月詠や藤宮に介入の余地はあるし、お上様も手助けしてくださるだろう」
『羽姫は納得してる、東城に行く気だよ』
「あり得ない。君が昨日持ってきた文にも、未練の歌が綴られていた」
『帝さ、竹取物語って知ってる?』
「たけとり物語?」
『衣着せつる人は、心異になるなりといふ。羽姫はもう、俺たちのことなんて覚えないよ。悲しいとか寂しいとか、そういう思いはもう、羽姫の中に残っていない』
「絋介、なにを言っている? どこのトイレだ? そこに行こう」
『羽姫さ、玄関にも入らなかった』

 グズっと鼻を啜る音がした。あぁ、これは、探しに行ってはいけない。
 歩み出した足をその場に留め、きつく目を閉じた。

『叔母さん、張り切って羽姫の好きな物たくさん作ってたんだけど、料理を見ることもなく。ていうか目も合わなかった。お世話になりましたって言葉だって、羽姫じゃなくて付添の人が言ってさ。なんかもう、なにしに来たんだよって思った』

 荒々しい呼吸を整え、絋介が軽く鼻を啜った。

『帝、お前の知ってる羽姫はもういないよ』

 にわかには信じられなかった。
 姫が、あの愛らしい娘が、そのようなことをするなど。たった一週間で、それ程までに人は変わるのか?
 ふと、姫が居なくなった初日、東城の屋敷で見た彼女の姿を思い出した。
 たった数時間で、別人の様な振る舞いを見せた姫。
 一週間もあれば、人は変われるのか?

「絋介、俺は姫に会ってくる」
『やめた方がいい。あの羽姫を、帝に見せたくない』
「それが故に俺に連絡しなかったのか。君は優しいな、ありがとう」
 返事も聞かず、通話終了ボタンを押した。

「月詠くん、姫に会いに行くの?」

 突然の声に仰天して振り返る。
 真後ろ、心配そうに首を傾げる阿部が立っていた。

「君は、俺の心臓を潰す気か」
「え? そういうわけじゃないけど……そういうわけじゃ、ありません、です」
「なんだ、急に」
「あ、うん。月詠くんって、あの御三家の人だったんだね……ですね」
「君は今までなにを思って俺を月詠と呼んでいたのか」
「ごめんね、僕の家、気位が低いから」

 それは自慢することではないと言ってやりたかったが、面倒臭くて放っておいた。

「あ、いや、ごめんなさ……申し訳ありません」
「今さらだ、気にするな」
「でも」
「それに俺は、御三家の権力とは無縁にしてこの高校に入学を許可された。ここで身分制度を決めるのは学年と成績だ」
「それだったら二年生の頂点は月詠くんだよね? 学年一位なんだから」
「……成績故に身分を隔てるべきではない。順位というものは変動するからな」
「月詠くん、入学当初からずっと一位だよね? 入試は満点だったらしいね?」
「……とにかく、ここは普通の高校だ、地位も身分も関係ない。俺のことは特別扱いせずとも良い。現に、蔵持や大伴は俺に対等の敵対心をぶつけてくるだろう」
「月詠くんかっこいいから、男の敵多いよね」
「君は会話が下手なのか! とにかく気を遣うのはやめろ!」
「うん、わかったよ」
「話がそれたな、なんの話をしていたか」
「姫に会いに行くって話でしょ? 教室にはもう居ないんじゃないかなぁ」
「……は?」
「さっき会った時、お供の人が次か最後なので運転手に連絡しておきますって言ってたから。あれから随分経ってるし、学校の用事はすでに終えてるんじゃないかと思って」
「君は、なぜ、そのような大事を平然と言い切るのか」

 震える手を抑え、階段を駆け下りる。

「頑張ってね、月詠くん!」

 背後から降り注ぐ阿部の声。
 いつもは鬱陶しいそれが何故か、背中を強く押してくれているようだった。

「月詠くんが何者でも、僕たちが親友だということには変わりないからね!」

 いつのまにか、友達から親友へ格上げされていた。


3.衣着せつる月の姫

 阿部の助言を受けておいて助かった。
 体育館裏にある駐車場に着くと、三人の下女に囲まれた姫が車に乗り込もうとしているところだった。

「姫!」

 大声を張り上げたのは生まれて初めてかもしれない。
 喉が震えた。

「……帝様」

 くるりと振り返った姫が俺の名を呼ぶ。だが以前のそれとは違う、冷たく無関心そうな抑揚のない声。
 表情も堅く、息が荒い俺を蔑むような目をしていた。

「なにか御用で?」

 下女の一人が俺と姫の間に割り込む。
 彼女を一瞥し、姫を見つめる。

「お話が、したいのですが」

 目線は合わない。
 喋らない姫に変わって、下女が口を開く。

「お話しすることはないそうです」
「君に聞いてはいない。俺は姫と話をしている」
「それが不可能だと申しております、お引き取り願います」

 まるで示し合わせたように、三人の下女が同時に頭を下げる。その中心で、そっぽを向いて動かない姫。
 一瞬で理解した、これはダメだと。
 絋介、君の言葉は正しかった。
 おそらくこれは、無理だ。

「姫、今一度問います」

 こちらに目もくれない姫と、彼女を取り巻く東城の下女たち。
 衣着せつる人は……
 現世では、東城の家紋が刻まれた着物が天の羽衣に値するのであろう。それに当てられて姫は、まるで別人のように変わってしまった。

「君は、東城へ行く事を厭わないのですか?」
「仰っていることの意味を、理解し兼ねます」

 うつむき、袖で口元を隠しながら姫が言う。

「俗世を捨てても構わないのか、と聞いています」

 雪のような肌、氷のような冷たい表情。
 それでもやはり、彼女は美しい。

「構いません。なぜ私が此のような儚き俗世に留まらなければならないのでしょうか。無駄話は好ましくありませんので、これにて失礼致します」
「ひどい言葉遣いですね、付け焼刃で寄り寄りおかしい」
「……話は以上ですか? では……」
「俺に対しても、すでに関心を失っていますか?」
「……はい」
「二度と逢えなくとも、それで良いと?」
「はい」

 姫の言葉には感情がこもっていない、俺に目を向けようともしない。
 人の心を失ってしまったのだ、彼女は。
 昔からそうだ。
 そうやって月の姫は、俺の前から姿を消す。
 今度こそ背を向けた姫が、自家用車の後部座席に乗り込む。下女が着物を支え、ドアに手をかけたその瞬間、

「文を……」

 言葉が無意識に、喉を突いて出た。

「姫に歌を、届けます」

 途端、姫が顔を上げた。
 一瞬見つめあったのち、車のドアが閉められて目線が遮られた。
 スモークガラスのため、姫の姿は見えない。
 慌ただしく下女たちが車に乗り込み、早々に走り去って行っていく姫を乗せた車。

「……終わりだ」

 その姿が見えなくなったところで、俺は深くうなだれる。
 物語はこれでおしまい。
 麗しき月の姫は、本来彼女が生きるべき場所へ。
 俗世で過ごした時間を全て捨てて、大切な人の気持ちも慮らずに。

「……いや」

 物語にはまだ続きがある。
 その後、翁と嫗は姫を失った悲しみで無気力になり、病に伏せた。
 そして俺は……

「駿河(するが)の国か、ここからは少し遠いな」

 そんな所へ行ってなにをするというのか。
 富士山の山頂で薬を焼き、この山の正式名称は不死山(ふじやま)だとでも叫ぶのか?

「阿呆か、俺は」

 自身の不甲斐なさに呆れため息を漏らしたとき、ひゅうと風が吹いた。
 振り返ると、二メートル程離れた場所に繭が立っていた。後ろ手には、紙束を持っている。

「……残念です。このまま振り返らなければ、放っておくつもりだったのに」

 紙束を握り締めた繭が哀愁を帯びた笑みを見せた。
 なぜだろう、この娘も先ほどと雰囲気が違う。
 別人になったようだ。

「富士の山程ではないけれど、少しは天に近いはずです。屋上に行きませんか?」

4.返歌

 校舎の屋上は出入り自由で、昼間は鍵も開いていた。
 飛び降りする奴はいないだろうが、落ちてしまう阿呆が出ないようにと、二メートルの高いフェンスで覆われている。

「振られちゃいましたね」

 フェンスの網に手をかけ、繭が空を眺める。

「失恋って苦しいでしょう?」

 振り返った繭の顔は、微笑んではいるが寂しそうだった。

「苦しいという段階までいっていないな。敢えて表現するなら、わけがわからない」
「そうですね。最初から相手にされていなかったのならまだしも、一度は親しい仲になった人から拒絶されるのは、わけがわかりませんね」
「君は、苦しかったか?」
「悔しかったです。容姿や家柄に恵まれた分、余計に。先輩の言う通り、私は選ぶほうの人間です。数多の男が私の上等さを語り、求愛してきました。それなのにどうして先輩は、私の好きな人は私のことを必要としていないのだろう、って」
「届かぬ愛は儚い物だ。両想いとは正に、奇跡のようなものなのだな」
「そうです、奇跡です」

 繭が足を踏み出し、俺に歩みよる。
 ゆっくりと、目をそらさずに見つめあったまま。
 手を伸ばしたら触れそうな距離まできたとき、立ち止まった繭が俺の顔を見上げた。

「構わないと思っていたんです。先輩の寵愛が手に入らずとも、側に居るだけで。乙女心は秋の空、恋や愛なんて一時の幻、永遠に続くはずがない。先輩は誰も選ばない、ふらっと別の女と遊びふらっと私の元へ帰ってくる。それで良かったのに。貴方はもう、一人の女しか愛さないという」
「ただ一人を見つめる楽しさを、知ってしまったからな」
「浮気をすれば彼女が悲しむから、と言わないところが先輩らしいですよね。自身の為すことを他人の所為にしない。そんな先輩が、私は本当に愛おしい」

 頬に触れようとする繭の手を、顔を背けることでかわした。
 繭は微笑み、手を引き戻す。

「両想いは奇跡だと、先輩いいましたよね?」
「そうだな」
「気付いていますか? 貴方はその奇跡を起こしていたんですよ?」

 繭は後ろに隠していた左手を、俺の胸に押し付けた。彼女の手には、紙の束が無造作に握られている。
 白紙ではない、花の絵が描かれた便箋に筆で書いた文字の跡。

「それは……」
「部屋を漁ったことは謝ります」

 うつむく繭が、手の力を強くする。
 それは俺の自室、机の中にあるはずの姫から贈られた歌が書かれた文だった。
 色とりどりの可愛らしい便箋に、女性らしい丸い文字。

「もう一つ白状すると、これ全て読みました」
「読み……読んだ? これを?」
「すみません」
「いや……え? ……えぇっ?」

 情けない声が漏れてしまった。
 恥ずかしいやらなにやら。いや、それよりも姫に申し訳ない。

「君は本当にどうしようもないな……」
「自分でも呆れています。そして後悔しています」
「後悔?」
「先輩は、奇跡を起こしていたんですよ?」

 顔を上げた繭の瞳には、涙が滲んでいた。

「私にはこんな、大好きって気持ちが溢れるような歌は詠めない。一文字一文字丁寧に、受け取る相手のことを考えた美しい文字も、歌に合わせた色の便箋も花の装飾も。私には決して真似できない。あの人は本当に、先輩のことが好きだったんだって思い知りました。私じゃ到底、敵わない」

 繭の手は震えていた。
 手のひらを重ねようと思ったが、俺自身の手も震えていたが為に叶わなかった。

「文をやり取りをしていたのは一週間以上前のことだ。今の姫は俺に対する恋情など……」
「無いわけないでしょう。こんな歌を贈る人が、そんなに簡単に先輩を忘れるわけがない」
「しかし見ていただろう。姫はもう俺のことなど……」
「情けないこと言わないでください!」

 バシッ、と盛大な音が響いた。
 何事かと正面に向き直り、頬を叩かれたのだと気がついた。衝動で横を向いてしまうほど、痛みが残るほど強く、繭が俺の頬を引っ叩いた。

「貴方は月詠の帝様でしょう? 傲慢知己で誰よりも気位が高く、頼んでもいないのに誰かを助けに行ってしまうお人好しで、それ故に知らぬうちにたくさんの人に慕われて。なにを悩んでいるのですか? 他人の目なんて気にせず正義を貫く、自分勝手が先輩でしょう? 女一人に振られたくらいでそんな顔しないで、そもそも振られないでください! 私の好きな人が、振られて泣いているなんてあり得ない!」

 捲し立てて喋る繭が、両手で俺の胸を叩いた。

「先輩は、帝様はこの世の誰よりも気高く、格好いい男です。そうじゃないと許しません」

 その拍子で、繭の手にあった便箋の束が風に流されて宙を舞った。

 空に舞う文の束、綴られたたくさんの歌。
 姫の気持ちが、大好きという気持ちが溢れた……

「文を……」

 あぁ、そうだ。約束を交わしたではないか。
 まだ終わっていない、物語は未だ。
 竹取物語のその後、彼らが転生した物語には続きがある。連れ去られた姫を取り返しに、今度は離さない。
 共に、桜を見ようと。
 時代を超えて何度も生まれ変わり、姫に出会った。月を眺めては願ったその先の未来。
 あの日言えなかった、言葉を。

「君に、返歌を」

 手を伸ばすと一枚の便箋が触れ、指で掴んだ。それは姫が最後に詠んだ歌だった。
 薬と共に、俺に贈ってくれた歌。

 姫は言ったのだ、寂しいと。

 俺に訴えていたのだ、文を認める程に。
 天の羽衣はその者の心を変える、姫は変わったのだ。自らの意思とは別に。
 その、本意とは……?

「ありがとう、繭」

 便箋を握りしめ、俺は顔を上げた。
 つられて繭も、俺を見上げる、

「悪いが俺は、いかなければならない」
「……私を残し、去ることへの罪悪感は?」
「ないに等しい。俺はどうやら、一つのことにしか興味を示さないらしい」
「優しくないですね、先輩は」
「正に。俺は君にとって、最悪の男だ」
「知っています」
「ありがとう、繭。勝手を言えば、君が真に優しい男と、出会えますように」
「それ、自分が振った女にいう台詞じゃないですよ。本当、自分勝手なんだから」

 くすくすと繭が笑うので、俺も顔を綻ばせた。

「勝手ついでに、もう一つ頼まれてくれるか?」
「なんですか?」
「床に落ちた文を、拾い集めておいてくれないか?」

 俺の言葉に繭は目を丸くし、やがて腹を抱えて笑った。

「私を使うなんて、高くつきますよ?」
「今度、クッキーの作り方を教えてやろう」
「……楽しみにしています」

 一笑した繭が、俺の背中を押した。

「こちらこそ、ありがとうございました」

 空に響き渡る様な、澄んだ繭の声に押され、俺は屋上を後にした。

第6話

#創作大賞2023

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