月と姫の転生物語 第6話
1.反転
階段を駆け下りている最中、携帯電話を取り出した。
通話履歴から発信、相手は暇なのかワンコールで繋がった。
『やぁ、今朝ぶりだね』
「君は常に携帯の画面を凝視しているのか、電話に出るのが異様に早い」
嫌味を言ったが、藤宮はさして気にせずケタケタ笑った。
『偶々(たまたま)見ていたんだよ。で、今度は何かな?』
「君の仕事にクレームを入れたい。夜武羽姫の行動予定に関して、聞いていた情報が実際のものと異なっていた」
『あぁ、讃岐の家を早く出発したアレね』
「故に、新たな情報を求める」
僅かな沈黙のあと、『ふふっ』と笑い声が漏れる。
『帝、いま何時かな?』
「午前十一時半過ぎだ」
『姫はまだ俗世にいる。讃岐の家に引き返したみたいだよ。昼食を頂くことにした、と』
「……そうか」
それはよかった。
絋介の叔母が、手に塩をかけてご馳走を拵えたことが無駄にならなかった。
『その後、もう一度学校へ行く』
「学校……とは此処のことか? 何故(なにゆえ)?」
『約束を忘れていた、と』
「約束?」
何のことだ? 誰との約束?
「……ありがとう、藤宮」
それよりも今は、好機に恵まれたことに感謝しよう。
姫はもう一度、学校へ来る。
話をする機会がある。
『でもさ、詳細な時間はわからないんだよね』
「構わない。姫が再度、学校へ訪問するという情報だけで有難い」
『優しいねぇ、帝は。でもそれだと、僕が自分を許せなくてね』
ザッ、と足で地面を擦る様な音が通話の向こうから聞こえた。
まさか、そんなことはあり得ない、そう思いつつも、疑念を投げかける。
「藤宮……君はいま、どこにいる?」
『約束しただろう? 今日は外に出るって。僕はいま、月詠の屋敷の前にいるんだ』
「……はぁぁ?」
立ち止まり、大声を上げてしまった。
あたりを見渡すが、幸い誰の姿もない。
『久しぶりに来たけど、月詠家は相変わらず厳格だね』
「藤宮家が緩すぎる……それよりも、なぜそんな所へ」
『実を言うと、帝へ渡した情報が間違っていたことにはすぐに気がついたんだ。だけど謝って済む問題ではない、何か良い対価は無いかと考えて、こうして月詠へ出向いた』
「だから何故、月詠の屋敷に」
『帝が、夜武羽姫を取り戻すと聞いたから』
「そのつもりだが。説得して、相手が了承した場合に限るが」
『それってさ、東城に歯向かうことになるよね?』
「いや……ただ俺は、姫の本意を引き出そうと」
『夜武羽姫は東城の戒律に従うことを納得している。それをひっくり返そうと動くことは、東城の意思決定に難癖をつけるのと同じことじゃないかな?』
返す言葉が見つからなかった。
藤宮の言う通りだ、姫を説得すれば良いと言うわけではない。
姫は既に東城の娘だ、彼女自身それを受け入れている。俺が今から行うのは、丸く収まったことをひっくり返す?
俺の言動で姫が意見を覆せば、東城家の怒りを買うのは必須だろう。
月詠の姓を名乗る以上、自身の言動に責任を持てと言った、兄の声が脳裏に蘇る。
一週間前、姫が連れ去られた日、当主の庶務室で投げられた言葉。
俺が何かを為すことは、月詠の名を使うこと。生家の名誉を汚すということ。
最悪、月詠家と東城家の抗争の種になりかねない。
「……それでも俺は、姫を」
『助力するよ、帝。君が月詠の名を捨てたいと願うなら、僕が兄君に口添えしよう』
「口添えとは……月詠の名を、捨てる?」
『違うのかい? しかしなぁ、東城に喧嘩を売るとなると、月詠の名を持ったままでは何かと不都合だろう?』
はっとして、兄の言葉を反芻した。あの時、しきりに月詠の名を捨てろと言っていた。
気づかれていた、わかっていたのだ、兄上は。俺が本意に従って動けるように、大切なただ一人のために、何もかも捨てる事を厭わぬように。
「だから俺に、名を捨てろと……兄上も藤宮も、君たち御三家の当主は本当に、才気煥発(さいきかんぱつ)という言葉がよく似合う」
『僕は未だ当主ではないけれどね。そうなった時、同じ言葉をもらえるよう努めるよ』
「問題ないだろう、君ならば。ありがとう、藤宮」
『まだ何もしていないよ。さて、帝、君が僕に望む事は?』
「藤宮家次期当主の君ならば、口添えではなく請求ができるだろう。俺の月詠離脱の要請を頼む、俺の代理として」
『承った』
ザッザッと地面の鳴る音、風の切れる音が聞こえる。
『昼食が済むまでには何とかしておくよ。安心して、想いを遂げるといい』
足音が止むと同時、ビーと鳴る警告音。
盛大な音量に片目をつむったとき、通話が切れた。
「正に感謝する。ありがとう、藤宮」
携帯を額に当てて瞑目したあと、再び階段を駆け下りた。
心配はない、藤宮はうまくやってくれる。
兄上に至っては、口に出さずとも俺の味方だ。幼い頃からわかっていた、兄の目が優しいことに、触れる手が温かいことに。
小窓から見えた空が明澄で、どこまでも晴れ渡っていて、世界が俺に味方しているのではとの錯覚に陥った。
大丈夫、月はない。
2.大伴
階段を駆け降り、最後の一段を踏んだ時、廊下の向こうから喧騒が聞こえた。
知っている声だとうんざりして顔を上げると、身体が筋肉で仕上がっているような体格の良い大男がこちらに向かって走ってきた。
恋人候補の一人、竜の首の珠を得る為に大海原へ乗り出したのち遭難したという伝説を持つ、大伴という男だ。
その後、その伝説を校内に吹聴するよう仕向けたのは、俺なのだが。
「月詠! おまえっ!」
その大声は何処から出ているのか、肺か? それとも腹筋からか?
とにかく彼の声は太い、ついでに身体も。
俺より二十センチは高い二メートル越えの巨大が目の前で立ち止まり、鼻息荒く見下ろしてきた。
「こんなところにいたのか!」
「悪いが所用があるのでな、君に構っている暇はない」
「てめぇ、相変わらず気味の悪い男だな!」
「君には学習能力というものがないのか? 以前、同じ言葉を俺に投げ、酷い目にあっただろう?」
「ひどい目?」
「君が海で遭難した時」
「その時の話がなんだって言うんだ?」
「いや、だから、その時の言葉が気に食わなかった俺が、君の海難を校内に吸聴して……」
「あの話を吹聴して回ったのは飛語先生だろ! 漁師の家に通報した生徒がいたとかで」
「その通報した生徒というのが、俺なんだが?」
「……あの通報、月詠がやったのか! 待て、通報したやつは俺と友達だとか言ってたぞ?」
「君と友情を育んだ覚えはないな」
「なんだよ、じゃあ違うじゃないか!」
乱暴に肩を突き押される。
ダメだ、彼は言葉の通じぬ阿呆だ。
これ以上の会話は無意味だと、大伴の脇を抜けようとしたとき、今度は手首を掴まれた。
「離してくれないか? 急いでいるしなにより、男に腕を掴まれているという絵面が見るに耐えん」
「相変わらず小難しい言葉使いやがって! それより月詠、讃岐と仲良かったよな?」
「讃岐とは、絋介のことか? 数少ない友人の一人だ」
「そいつがよぉ、体育館のトイレにこもったきり、出て来ねーんだ」
「トイレ? 体育館の?」
「体育の授業中に駆け込んできて、それから今もずっと。昼休憩、演劇部が練習で使うから退いて欲しいんだと」
「君は演劇部の所属だったか?」
「ちげーよ、頼まれたんだよ」
「……面倒見がいいんだな」
意外に、という言葉は声に出さず飲み込んだ。
「体育館のトイレはリフォームしたばかりで、俺の力でもドアが外れねーんだよ」
「君の力でも、か。それは恐ろしいな」
「だろ?」
「あ、いや、古いドアなら壊してしまえと考える君の発想とその馬鹿力が恐ろしいと言ったのだが」
「なんだと?」
「すまない、なんでもない」
「とにかく、讃岐と仲いいなら出てくるよう説得してくれ」
「そうだな、俺も絋介には連れ立って欲しいと思っていた」
大伴の手を振り払い、脇を抜ける。
「情報をありがとう」
すれ違いざまに言うと、大伴は照れたようにそっぽを向いた。
「おい、月詠!」
しかしなぜか、背後から声をかけられる。
さほど離れていないのに大声を張り上げられ、耳が痛くなった。
「姫のこと、大事にしろよ!」
「言われずとも」
振り返ろうと思ったがやめた。
大伴に背を向けたまま、体育館へ歩みを進める。色恋沙汰なると盲目になるだけで、よいやつではないか、意外に。
しかし、『大事にしろ』とは。姫が抱えているいざこざを知らないのか。
そういえば、こいつら貴族は人の話を聞いていないんだった。
3.石島
体育館に入ると、舞台袖からひょこっと人影が現れた。
「あ、月詠の……」
ぼそぼそと喋るそいつは絋介ではなく、石島だった。
恋人候補の一人で、天竺にある御石の鉢を持参するとの試練を与えられた男だった。しばらく姿を消したのち、持ってきた物は明らかな偽物で、姫の顰蹙を買った。
こんなところで何をしているのかと思ったが、すぐに思い当たる節を見つけた。
彼が大伴の言っていた、演劇部員だ。
「君一人か? 他の部員たちは?」
「あ、いない……僕一人」
「一人で練習しているのか?」
「いや、部員は僕一人だけなんだ」
「……なるほど」
それは部として成立しているのか、一人で昼休みの体育館を占領する必要はあるのか。
など、様々な疑念はあったが、敢えて触れないでおいた。
「月詠くんはどうして……もしかして、大伴くんに言われて讃岐くんを連れ戻しにきた?」
「然(しか)り。それで、絋介はどこに?」
「そこのトイレの中にいる。だけど、無理に引っ張り出さなくていいよ?」
「何故(なにゆえ)?」
「体育館のトイレ使えないと困るからと大伴くんにお願いしたんだけど、よく考えたらトイレなら外にもあるし、困ることはなかったなぁ、と」
「他人に迷惑をかける前に気がつくべきだな、それは」
厠(かわや)の絵が描かれた扉の前に立ち、手の甲で二回叩いた。
返事はないが、鍵のところが在室を示す赤表示になっているので、中にはいるのだろう。
「絋介、いるのだろう?」
やはり返事はない。
「反応だけでもしてくれないか? 俺はそこに居るのは君だと思って話をしているが、別の者だったら赤恥だ。そこにいる君は絋介か?」
沈黙ののち、コンッと内側からドアが叩かれた。
「そうか、よかった」
横目で舞台上を確認すると、石島が踊り狂っていた。こちらの話は聞こえてないだろう、聞かれたとしても構わないが。
扉に向き直り、軽く呼吸する。
「先程、姫と会った。君の言う通り別人のように冷たかったが、どうあろうともあれは姫だ。俺は彼女ときちんと話がしたい。欲を言えばこれからも言葉を交わし、ともに笑い合いたい。今後の姫の行動予定は聞いたか? 讃岐家に戻って昼食をとるそうだが、君は行かなくていいのか?」
シンと静まり返った扉の向こう。
石島の息遣いが体育館に響き渡り、妙な気分になった。
「無駄だよ」
聞こえてきた声に、俺は思わず目を見開く。
「羽姫はもう、帰ってこない」
声の主は確かに絋介だが、俺の知っている彼の声ではない。
絋介はもっと柔らかい、ふざけた喋り方をするのに、扉の向こうにいる声はとても冷たい。
「見たならわかるだろ? 羽姫は見下してるんだ、俺たち庶民を。やっぱりご飯食べることにする? なんで? 汚い食事はしないって言ったんだよ、あいつ。庶民とは食卓を囲めないって。それなのになんで、戻るとか」
「……自惚れかもしれないが、俺と話をした故かもしれない」
「帝と話をしたせい? なんで?」
「たしかに姫は冷たかった。表情も声もなにもかも別人で……でも最後、車に乗り込んだあと、一瞬だけ目があったんだ。その時の姫の瞳は、以前と同じ色をしていた」
「なに言ってんだよ、意味わかんないんだけど」
「約束を思い出してくれたのかもしれない。文を、姫に歌を届けます、その言葉に姫は反応した。俺の言葉が張り詰めていた姫の心を溶かし、人としての心を取り戻して、讃岐の家にもう一度立ち寄ろうと……」
「なんだそれ。自意識過剰だろ、なんで帝の一言で……帝の言葉で、羽姫の気持ちが揺らいだ?」
「自惚れかもしれないと言っただろう」
「羽姫は帝のことを一番に慕っていた。俺や叔父さんたちよりも……帝なら羽姫の本意を変えれる……取り戻すことができる?」
「わからない、しかし努力はする」
「帝……俺は、羽姫に讃岐の家にいて欲しい訳じゃないんだ。羽姫が幸せなら何処だろうと好きな場所に行けばいい。だけど二度と会えないというのは、違う気がして」
「同意する。東城の戒律は俺もどうかと思う」
「何より羽姫が……あんな顔して欲しくない、笑って欲しいんだ。東城の娘となった羽姫が、幸せになるとは思えない」
「そこまで理解していて、なぜ君はそこにいる? 閉じこもっていても、世界は変わらないだろう?」
出てこい、絋介。
そう呼びかけるより早く、扉が開いた。
「久方ぶりな気がするな」
俺の言葉に、憔悴し切った顔の絋介がふっと微笑した。
目元は赤く腫れている。
「昨日会っただろ?」
「そうだな。様々なことが目まぐるし過ぎて、時間の感覚がおかしくなっているようだ」
「俺も。今何時?」
「十二時を超えたところだな」
「今から帰っても、昼ごはんには間に合わないな」
項垂れる絋介の腕を引っ張り、外に連れ出した。
長らく座っていた故か絋介の足元がふらついたが、すぐに自分の足で立ち上がって歩みを進めた。
「飯など食っている場合ではない。すぐに姫を取り戻す算段をするぞ」
「えっ? 帝、なにも考えてないの? 無策で俺のこと迎えに来たの?」
「いろいろあったものでな、俺も」
体育館を出ようとフロアを歩いていた時、熱い視線を感じて振り返った。
その先に、舞台上から俺たちを見下ろす石島の姿。
「感動したよ、月詠くん、讃岐くん」
気のせいではない、彼の目はキラキラと輝いていた。
「まるで寸劇、傷ついて飛べなくなり籠の中に囚われた引きこもりの友人に手を差し伸べて外の世界へ連れ出す、大空へ舞い上がる盛大な会話だったよ」
「すまない、石島。君の言葉は隠喩を多用し過ぎて何がなんだかわからない」
「簡潔に言うと、友情って素晴らしいね!」
「……そうか」
両手を胸の前で結び、目を輝かせる石島。
絋介はわけがわからなそうな顔で、石島と俺を交互に見つめていた。
「僕、脚本も書いてるんだけど、次の劇に今の君たちの台詞入れていいかな?」
「断る」
「あ、待ってよ、月詠くん」
待てと言われて歩みを止めるほどの優しさは持ち合わせていない。
出口の扉に手をかけたとき、舞台上から石島が大声を張り上げた。
「良いものを見せてくれてありがとう!」
礼を言われる筋合いはないし、見せ物ではない。
「お節介かもしれないが、君はまず部員を増やせ。寸劇をやろうにも、一人ではどうしようもないだろう」
出口から舞台までは五十メートル程あって遠いので、自然と声が大きくなってしまった。
俺の言葉に感極まったのか、石島は涙を流し座り込んだ。
面倒になる前にとさっさと体育館を去り、渡り廊下を歩いているとき、絋介が耳元で囁いた。
「なぁ、帝。さっきの誰だっけ?」
俺の周りには、阿呆か変人しか居ないらしい。
4.麻上
絋介を捕まえたはいいが、姫の本意を揺るがすにはどうすれば良いのか。
答えは見つからず、俺と絋介は図書室にいた。
「昼になったら羽姫、学校に来るんだろ? それまでになにか考えておかないと。何時に来ることになってんの?」
「明確な時間はわからないが、動きがあれば藤宮から連絡が入る」
と言いつつ携帯を眺めるが、連絡はない。
本来ならば授業を受けている時間だ、他の生徒や教師に見つかると面倒くさい。
午後一時半、タイムリミットまでそれ程の時間はないだろう。
「だけど、羽姫の言う約束ってなんだろうなぁ?」
椅子に背を持たれながら絋介が言う。考えているふりをして難しい顔をする絋介は、いつもの彼に戻っていた。
「帝に文を返さなきゃいけないとか?」
「歌の遣り取りは俺で止まっている。返歌を贈らないといけないのは俺のほうだ」
「じゃあ、その返歌を受け取りにきた?」
「姫からの最後の文は別れの歌だった。返歌を期待してはいないだろう」
「じゃあなんだろう?」
「俺ではない、友人との約束か」
「あぁ。羽姫、最近やっと友人が出来たって喜んでたからな。だけどなんの約束だろ?」
「聞いてみるか?」
姫に連れ添っていた友人たちの顔は覚えている。
約束をしていたかと聞けば彼女たちは快く応えてくれるだろう。
しかし……
「自惚れだろうが、俺に対してのことだと思うんだ」
「……俺もそう思うよ」
絋介の同意は予想外だった。
有難いと言おうとしたが、携帯が鳴ってそちらに気をとられてしまった。
画面に表示されているのは藤宮の文字。
「どうした、藤宮。まさかもう姫が」
『あ、いや、夜竹羽姫のことではあるのだけれど』
俺の勢いに気圧された藤宮が、珍しく言葉を詰まらせた。思った以上に、俺は心を乱しているらしい。
冷静にと言い聞かせ、藤宮の話に耳を傾ける。
『讃岐の家で居眠りをしてしまったらしく、しばらくは動きそうにないよ』
「居眠り?」
何事かと絋介が耳を携帯に当ててくるので、スピーカーフォンに切り替えて会話を続ける。
『昼食後、一人で自室に入りたいと言い出したみたいでね。なかなか出てこないことを心配した付添の者が確認したら、ベッドで横になっていたらしい。余程気を張っていたんだろうねぇ』
「そうか……藤宮、どうして君はそこまで知っている? 情報を生業にしているにしても詳しく、早く知り過ぎではないか?」
『情報は正確さと鮮度が大事だからね』
「はぐらかすな」
『まあまあ、もう一つ大事な話があるんだ。帝、兄君から何か連絡があったかい?』
「兄上から? いや、なにもないが……俺の月詠離脱の件か。どうなった?」
『午後零時十三分、君は無事に月詠の名を捨てたよ』
「そうか。すまない、藤宮。手間をかけさせたな」
『これくらい事もない。というより、謝罪しなくてはならないのは僕のほうだよ。実はね帝、君は月詠を離脱したというよりも破門になった』
「……はもん」
意味のわからぬ言葉に首を傾げると、絋介も同じ方向に顔を動かせた。
「破門?」
絋介の言葉で、ようやくその意味を理解する。
「ちょ……藤宮、どういうことだ?」
『破門というより除名かな。家来に確認してもらったが、月詠から君の戸籍が抜けていた。いま現在君は、役所的には存在しない者となっている』
「大問題ではないか! それに除名とは破門よりも罪が多い……何故(なにゆえ)そのようなことに」
『帝の月詠離脱を懇願しに君の兄、月詠当主様に謁見したはいいが、怒らせてしまったみたいでね。なぜ他人が来るのか、帝はなにをしているのか、って』
「それはそうだろう。離脱という大事に本人が顔を出さぬなどあり得ない。それをなんとかするために藤宮の嫡子である君にことを頼んだのだが」
『引きこもり生活が長い故かな、うまく喋れなくてね。失敗しちゃった、ごめん』
悪びれなく笑う藤宮の声に、怒りを通り越して呆れ返った。
反論する言葉すら見つからない。
『それでね、帝。君の私物は先ほど全て片付いたよ』
「片付いた?」
『お怒りになった月詠様がね、帝の荷物を全て処分すると仰って、君の部屋はもぬけの空になっているよ』
「…………君は一体、なんのために存在しているのだ?」
『あっはは。相変わらず厳しいなぁ、帝は。まぁ、経緯はどうあれ、これで君は自由の身だよ。安心して想いを遂げてくれ』
捨て台詞のように言い切り、藤宮の方から通話を終えた。
項垂れる俺の顔を、絋介が覗き込む。
「帝、どういうこと? なにがあった?」
「……東城に囲われている姫を取り戻すために、月詠の名を捨てた」
「え? 月詠の名を捨てる?」
「俺が東城に喧嘩を売ると月詠の名に傷がつくのでな、離脱の要請を頼んでいたのだが」
「えぇっ! じゃあ帝はもう月詠帝じゃないってこと?」
「あぁ、苗字なしのただの帝だな。役所的には世にも存在していないらしい」
「大丈夫なのか、それ?」
「わからぬ……しかしこれで、後には引けなくなった。これで姫を取り戻すことができなければ、俺は正に阿呆となるな」
「……もし行くところなかったら、讃岐の家の子になる?」
「なにを言っているんだ、君は」
面白くもない絋介の冗談にため息をついたとき、またしても携帯が音を立てて鳴った。
画面には【麻上】の文字。
懐かしい名前だな、と通話ボタンを押す。
麻上とは姫の恋人候補の一人、燕の子安貝を求めて嵐の夜にことを為そうとして籠から落ち、腕の骨を折った阿呆だ。
その後すぐに親の都合で転校した、数少ない俺の友人でもある。
『久しぶりだな、帝』
変わらぬ明るい声に、心が少しだけ穏やかになる。
「久方ぶりだな。君から連絡をくれるとは、珍しい」
『いつも俺からしているだろう? 帝からは連絡くれないから』
「あぁ、すまない。それで、どうした?」
『そっちはどうだ、元気か? もしかして授業中だったか?』
「構わない、授業をしている場所にいないからな」
『? そうか。いま、桜雪祭りにきているんだ』
「桜雪祭り? 妙な言葉だな」
『俺も驚いたよ、なにが行われるのだろうって。会場に着いて驚愕した、とても綺麗なんだ。降り注ぐ雪に桃色の塗料を塗り、まるで桜吹雪の中にいるような光景』
「ほぅ、それは趣(おもむき)があるな」
『帝と共に見たかったなぁ』
「すまないが男と桜を見ても……」
『あぁ、そうか。帝には姫がいたな。二人で桜を見る約束などは交わしたのか?』
「桜を見る、約束?」
『あれから暫く経つが、それの後どうなったかと聞くのも忍びなくて。姫とはうまくいっているか?』
「……うまくは、いっていない」
『いっていないのか? どうした、歯切れが悪いぞ』
声を失ってしまった。というより、思考が停止した。
次の瞬間、思い出したことがある。
約束だ、姫と交わした……
「明年の春、桜を……花吹雪を、見に行く」
『桜吹雪?』
「そうだ、俺との約束だ……約束したではないか、桜吹雪を……」
『帝? どうした?』
「すまない、麻上。急ぎの用がある故、通話を終了する」
『それはもしかして、姫に関すること?』
「……然(しか)り」
口籠る様な俺の声に、麻上はくすくすと上品に笑った。
『頑張れ、帝。応援してる』
第7話
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?