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月と姫の転生物語 第8話(最終話)


1.真意と本意

 姫の友人達が去ってから一分もしないうちに姫が現れた。
 そうなるだろうと予測していたが、やはり目の当たりにすると動揺する。
 パタパタと階段を駆け上がっていた姫が足を止め、俺を見上げる。

「やぁ」

 自然に笑えていただろうか。
 手が震えてはいなかっただろうか、衣服は乱れていないか、おかしい所はないか。
 誰かに見られることがこれ程までに緊張するとは。
 少しでも良く見られたいと、格好をつける努力をすることになろうとは。
 恋とはとても恐ろしく不思議で、愛おしいものだ。

「久しぶり、と言うべきか」

 返事はない、表情も変わらない。
 姫は難しい顔をしたまま階下から俺を見つめていた。
 目線が交わせている、それだけで充分だ。
 俺の声は君に届く。

「君の友人は逃げ足が速いな、苦労したよ」

 一段下りて歩み寄るが、姫は逃げない。
 一歩、また一歩と階段を下るにつれ、姫と過ごした日々の記憶が蘇った。
 初めて姫に文を贈った、歌を届けた日のことや、笑い合った日。
 共に桜を見ようと……

「いとをかし」

 誰かを愛らしいと思う気持ち。
 必死に取り繕って、格好よく見られたいと見栄を張ること、想いを馳せながら月を見上げること。
 何度も、同じ内容の文を書き直すこと。
 それを手間と感じない、不思議な感覚。
 俺は確かに、彼女に恋をしていた。
 本当に楽しかった、側にいてくれるだけで満足で。
 世界の全てが変わった、輝いて見えた。

「歌が、好きですよね?」
「……え?」
「取り戻して来ました」

 姫との距離が一メートルになった時、右手に持っていた文の束を差し出した。
 呆気にとられた姫が、おそるおそる手を伸ばす。

「君が好きです」

 指が触れる直前、俺の声でそう言った。
 いま言うつもりはなかったのに、言葉が勝手に出て来てしまった。驚いたのは俺だけではない、姫も同様で、互いにじっと見つめ合う。
 誤魔化すか?
 いや……恋とは勢いだ。
 言ってしまえ、いま。

「ずっと、ずっと君を追いかけてきた。月を見上げては涙を流し、富士の白煙を見ては心を痛め。来世は、もし生まれ変われたのなら、今度は、想いを伝えようと……好きです、姫」

 姫の目が見開かれる。
 ポタッと床に落ちたのは彼女のではない、俺の涙だ。
 あぁ、こんなにも、愛おしい。

「……帝様」

 情けなく涙を流す俺に、姫が手を伸ばした。
 文の束を持つ俺の手を、姫の指が包む。細い、しなやかで儚い指先。ひんやりとしていて、まるでこの世の物とは思えない、姫は美しい。
 なぜ彼女は、かぐや姫は月へ帰らなければならなかったのだろう。
 なぜ地球に残ることができなかったのだろう。
 なぜ、俺たちは引き裂かれたのだろう。
 月を憎んだ夜から、何度生まれ変わっただろう。

「帝様、私は……」

 姫がなにかを言いかけたので、涙を拭って顔を上げる。
 しかしそれと同時、

「羽姫! こんな所に居たのか」

 階下からの大声に、姫は言葉を止めてしまった。
 目を向けると、階段の下には東城の姿があった。

「付添の者から連絡があったぞ、庶民を追ってはしたなく走り逃げたと。こんなところでなにを」

 階段を登る東城が、ようやく俺に気がついた。
 瞬時になにかを悟ったようで、気不味そうに視線をそらす。

「勝手な行動は慎めといっただろう? 付添の者の慌てようといったら」
「それで、兄様自らここへ? 申し訳ございません」

 顔を青くした姫が、膝をついて東城に頭を下げる。

「あぁー、今はいいから、そういうの。面を上げろ」

 言われた通り、姫は顔を上げて立ち上がる。
 東城家における女への躾は特に厳しいと聞くが、たった一週間でこれ程までに姫が謙(へりくだ)るとは。

「ろくでもないな、東城家は」

 思わず声にしてしまい、東城の厳しい視線を浴びた。

「今はとやかく言うまい。帰るぞ、羽姫」

 姫の腕を掴んだ東城が踵を翻す。
 しかし姫が動かなかったので、一度立ち止まった。

「帰るって……」
「別れの挨拶を終えたら東城の屋敷に入ると約束しただろう? 反故にするのか?」
「あ、いえ……参ります」

 諦めたようにうつむく姫。
 堪らず、東城が握っていると反対の姫の手を掴んだ。

「約束というのなら、俺が先だ」
「は? なに言ってんだ、帝」
「以前、姫と約束を交わした。それをまだ果たせていない」
「おまえ、誰にもの言ってるかわかってるか? 羽姫は東城直系の娘で、俺はその嫡子だぞ。同じ御三家である月詠のおまえが俺に喧嘩を売るとは」
「月詠の名なら捨てた」
「はぁ? 捨てた?」

 東城だけでなく、姫も驚いたようで顔を上げて俺を見た。
 面白い、予想以上の反応だ。

「戸籍を確認してくれて構わない。月詠に俺の名は残っていないだろう」
「離脱したのか? いつ?」
「今朝方、ちなみに離脱ではなく除名という形だ」
「はぁぁ? 除名? なにしたんだよ、おまえ」
「後で藤宮にでも聞いてくれ。そして故に、姓なしの俺が君に意見しようと月詠家には何の問題もない。今は一私人、ただの帝として君に歯向かっている」
「いやいや、だからって……はぁ? マジで除名? そこまでするって、そんなこと聞いてない……なに考えてんだよ」

 東城が盛大なため息を吐く。
 姫に至っては、震える手を口元に持っていき青ざめていた。

「東城、姫と話がしたいのだが」

 俺の懇意に、東城はふいと視線を逸らした。

「今は認めない。東城における戒律の厳しさは知っているだろう? 羽姫に与えた自由の時間はとっくに過ぎた。俺にはこいつを東城の屋敷に連れ帰る責務がある」
「そうか。でもそれば、本人がそれを承諾しているならば、であろう?」
「なにが言いたい?」
「姫が東城に入ることを厭うなら、俗世に留まりたいと願うのなら、強制する手立てはないはずだ」
「……羽姫」

 東城に呼ばれ、姫はビクッと身体を跳ねさせた。
 軽く辞儀し、言葉を待つ。

「おまえ、東城の屋敷に入るって言ったよな?」
「……申し上げ、ました」
「本意からではなかったのか?」
「いえ……え、っと」

 姫が言葉を詰まらせた。
 東城も俺も、彼女の次の言葉を待つ。

「あの言葉は、本意に違いありませんでした」
「ならば今すぐ東城に戻れ」
「しかし……! 無礼を承知ながら、申し上げてもよろしいでしょうか?」

 珍しく、姫が声を張り上げた。
 東城は飼い犬に手を噛まれたような面持ちで、姫を見つめる。

「しかしそれは、兄様や父上、東城の方が言わせたに過ぎません」
「……どういうことだ?」
「讃岐の家は、力を持たぬ庶民だと兄様は仰いました」
「あぁ、言ったな」
「東城の吐息一つで、どうとでもなる命だと」
「そこまで言った覚えはないが」
「子を捨てたというだけでも恥であるのに、その娘が東城を拒み庶民の家を選ぶなど言語道断。もし東城の意向に歯向かうのならそれなりの覚悟はしておけと」
「は? そんなこと、俺は」
「父上に、釘を刺されました」

 うつむいて肩を震わせる羽姫。
 東城は呆気に取られ、目を泳がせていた。

「まさか父上がそんな……待て、落胤(らくいん)問題は父上の所以であろう。全ての責は父にある、羽姫を嚇(かく)する権利などない」
「しかし、そう申されておりました。悪評はすぐに知れ渡る。その上、その娘が東城から逃げ出したとなればこれほど不名誉なことはない。わかっているな、と……私が初日、東城の屋敷に入った時に言われました」
「…………っ」

 初耳だったのだろう、言葉を失った東城が拳を強く握り締めた。

「ろくでもないな、君の家は」

 俺の言葉に、片方の手のひらで顔を覆った東城が深く嘆息する。

「然(しか)り」

 もう一度ため息を漏らす東城が、指の隙間から姫を見つめる。

「羽姫、なぜ俺に相談しなかった?」
「東城はそのような場所だと、諦めて……兄様も、同じ考えなのだと」
「お前には俺が鬼に見えるか?」
「いえ……最初は疑っていましたが今は、兄様は人間だと思っております」
「……我が身の情けないことこの上ない。とはいえ約束は約束、本日は東城に戻るぞ」
「え?」
「待て、東城、姫の本意を聞いたであろう? 無理に連れ戻すなど……」
「話を聞いていたか、帝。羽姫は昨晩、東城に戻ることを約束した、それを反故にすることは許さん」
「だからそれは……さも然り、そう確約したならば、本日は戻るべきだな。いや、待て、今連れ戻されるのは……」

 やはり俺はまだ月詠の人間なのだろう。
 公私の判別がわからず、どっち付かずな言動になってしまった。
 それを哀れに思った東城が、再びため息を漏らす。

「羽姫、一旦東城の屋敷に戻り、そこで考えろ。おまえの本意がどこにあるのか」
「私の本意、ですか?」
「東城の戒律は厳しいが、それは個人の同意の上に成り立っている。故に俺たち東城の人間は自らの一族に誇りを持ち、気高く居ることができる。その気がないお前が居ても迷惑、規律を乱すだけだ」
「私の、本意」
「俺としては、お前ほど貴族らしい娘はいない。匿い麗しく育てあげたいところだが、人の心は無理やり手に入れるものではない。自らで考え、それでも東城家を望むのならば俺はお前を受け入れよう。答えは自分で見つけ出せ」
「……感謝致します、兄様」

 ペコリと頭を下げる仕草がとても愛らしい。
 その可愛らしい姫が、顔を上げて俺に向き直った。

「帝様、私は……」
「返したくない、というのが俺の本音だ」

 ぎゅっと、姫の小さな手を握る。
 驚いた姫だが、俺の手を握り返してくれた。

「東城家から出てきた君は別人だった。脅迫されていたとはいえ、あれ程までに貴族に馴染むとは驚いた。君の本意は、東城の家に入りたいという思いもあるだろう?」
「……はい」

 迷いを見せた姫だが、最後には小さく頷いた。

「東城の屋敷は心地のよい場所でした。兄様や姉様たちとの会話も楽しく、お付きの方々はとても親切で……あ、いえ、讃岐の家が不便だったわけではありません」
「良い、わかっている」
「……でも、東城の屋敷に入ったとき、すっと胸の靄が取れた気がしたのです。此処が真に私の居場所だと、生まれるべき場所だったと」
「君は最初から庶民とは思えぬほど淑やかで、この世のものとは思えぬほど美しかった。東城に戻れば君は、もう二度と俺の元へ帰って来ない気がする」
「帝様……」
「いけないな、君の本意は君自身で選ぶものだ。俺がとやかく言うことは良くない」

 惜しみながらも手を離す。
 寂しそうな、複雑な表情の姫が俺を見上げていた。

「君が自分で選ぶといい。東城が言っていただろう、人の心は無理矢理手に入れるものではない。自らで考え、それでも戻って来てくれるのなら俺は、君を生涯、愛することを誓う」

 姫の目が色を変えた。
 綺麗な漆黒の瞳、その中に俺の姿が映る。

「行きましょう、姫」

 一段下がり、手を差し出すと、姫は俺の手を取って階段を降りた。
 ゆっくりと一歩一歩、俺を支えにしながら階段を降りる。
 先に進む東城が面倒臭そうにしていたが、無視をして姫の付添を続けた。

2.花明かり

 廊下に出ると人影はなかった。
 下校時間を過ぎているからだろうか。そういえば、あれ程騒いだにも関わらず旧階段には誰も入って来なかった。
 誰かが人払いでもしてくれていたのだろうか。

「にしても、庶民の学校だよなぁ」

 校舎の装飾を見渡しながら東城が言う。

「不躾だぞ、東城」
「そういえば、お前らの約束ってなに?」

 歩きながら、東城は懐から電子煙草を取り出す。蓋を開くとすぐに煙が立つ、風情もなにもない代物だ。
 構内は禁煙だと思うが、面倒なので放っておいた。

「明年、桜を見に行くと約束した」
「桜?」
「姫は未だ見たことがないと言うのでな、桜を見て花吹雪に打たれてくる」
「はぁ? なんだ、そんなことか」
「そんなこととは無礼な」
「桜なんか見ても愉快なことはないぞ、やめとけ、羽姫。花吹雪なんて、髪が乱れて心も乱れて終いだ」
「君は花吹雪を見たことがあるのか?」
「見なくてもわかるだろ。たいしたことない」
「東城、君は風情という言葉を知っているか?」
「花吹雪だろうが桜吹雪だろうが、俺たち東城の人間の絢爛さには敵わんよ。羽姫に至っては特に、高嶺の大輪だ」
「……ろくでもないな、君たちは」

 呆れてものが言えぬとはこのことだろう。それ以上の会話をやめて歩く俺の後ろを、姫が微笑しながら付いてきた。
 かわいらしいことこの上ない。
 ずっと見ていられると思って、それと同時に不安に駆られた。
 やはり離したくない。
 彼女の側でずっと、共に笑っていたい。なにか彼女の気を引くような……俗世に留まりたいと思えることないだろうか。
 衣食住に至っては東城の屋敷に勝る物はない、人付き合いも居心地が良いと姫自身が言っている。
 東城家に無くて俗世に有るもの。
 俺か? いや、それは自意識が過ぎるな。
 もっと、姫の心を動かすような……

「いてっ、おまえ、前見て歩けよ」

 考え事をしていた故、東城の首に頭をぶつけてしまった。

「大丈夫ですか」と駆け寄る姫を片手で制し、東城は正面に向き直る。

「さて、帰るか」

 煙草を加えた東城が校舎の扉を開ける。
 それとほぼ同時だった。
 俺たちが感嘆の声を漏らしたのは。

「……桜吹雪?」

 呟いたのは姫だった。
 見たこともないのに、彼女はそう呟いた。
 俺の話を聞いて想像していたものと、いま、目の前に広がる光景が一致したのかもしれない。
 扉を開けると、校舎の外では桜吹雪が舞っていた。
 はらはらと、風に漂いながら舞い落ちる桜の花弁。
 造形どころか動きも本物と違わず、手にしなければ偽物とはわからないだろう。

「……綺麗だ」

 手のひらで花弁を受け止めた東城が、ふらっと校舎の外に出た。俺と姫も東城に続いて外に出る。
 それは絶景と呼ぶに相応しかった。
 あたり一面桜色の紙吹雪。
 そよそよと風に舞い、地に落ちてはまたふわりと舞い上がる。風がうまく花弁を宙に運び、また天からは新たな花びらが舞い落ちて。
 吹き荒れる桜吹雪の中、俺と姫は手を繋いだ。
 後で聞くところによると、風の演出は大伴と彼の仲間によるものだった。校舎の様々な場所から団扇で仰ぎ、風を起こしていたと。その横で石島は執筆活動に励み、後に風演出のメンバーは演劇部に入部し、【月とかぐや姫の転生物語】なる劇を大成することとなる。
 屋上には愉快に手を振る繭と、彼女の横で必死に花弁を舞い落とす蔵持。その他大勢の男たち、生徒だけでなく教師まで、男どもが繭を囲っていた。
 体育館の隅で涙を流すギャラリーの中には姫の友人二人。
 駐車場の向こうでは、阿部が[我が心の友、帝くん]と描かれた旗を振り回していた。
 停まっている車の中に、空を眺めている藤宮の姿が見えた。藤宮は俺と目が買うと片手を上げて微笑み、再び桜吹雪に目をやって誰かに電話をかけていた。

「いとをかし」

 姫が呟いた。
 俺は首を傾げる。

「ん?」
「嬉しいとか、心温まる感情を示す言葉です」
「……ああ、うん。いとをかし」

 俺の返答に、姫が嬉しそうに笑う。
 その笑顔が愛おしくて、繋いだ手をぎゅっと握り返す。

「姫、約束しましょう」

 姫が俺の顔を見つめたので、俺も彼女の方を向いた。
 本日もう何回目かの愛らしい、いとをかし。
 勢いそのまま言ってしまえ、恋とは衝動的なものなのだ。

「春になれば、本物の桜吹雪を見にいきましょう」
「え? 今のこれは?」
「これは蔵持の作成した紙吹雪です。本物はこれより更に美しい、色鮮やかな自然の美が視界を覆い尽くします」
「これよりも更に、美しい」
「花明かりという言葉があります。桜の花が一面に咲いて、夜でもあたりが明るく見えるという……いつか先の未来、君と二人で、その場景を眺めたい。もう一度俺と恋をしてください、姫。俺は本当に、君のことが好きで仕方ない」
「はい……」

 ひらりと、桜の花が姫の前髪に舞い降りた。
 茫然としていた姫の頬が真っ赤に染まり、やがてふわり笑顔を咲かせる。

「帝様、私––––」

 姫の声が、風の音と重なった。
 だけど俺は聞き逃さなかった、彼女の言葉を。
 小さな手が俺の手を握り返した。
 可愛い、愛らしい。
 好きだ、大好きです。
 伝えたいことはたくさんあるのに言葉にするには難しくて、空を見上げた。
 姫と共に、手を繋いで。


* * * * * * * * * * 

* * * * * * * * * *


3.新しい朝

 桜吹雪の日から半年経った。
 満月の夜から目覚めた俺は親指で瞼を押さえ、息を吐き出す。

「おかしな夢を見た、かもしれない」

 目頭が熱い。しかしそろそろ起きなければ。
 ゆっくりはしられない、なぜならば……

「おはようございます、先輩!」

 物凄い勢いで部屋の扉が開かれる。
 入口には、日本人らしからぬ亜麻色髪の乙女が立っていた。

「もしかして着替え中でした?」
「君が来るまでには起きようと思っていた故、油断した」
「まだそんな格好で寝てるんですね、寒いのに」
「月詠の屋敷は暖かいからな。それよりも繭、扉を閉めて一度出て行ってくれないか?」

 ふふっと微笑した繭が、後ろ手で扉を閉める。

「いや、だから、一度出て行ってくれと」
「私は構いませんよ、このまま着替えてもらっても」
「君は良いかもしれないが、俺が困る。兄上にだってなにを言われるか」
「あー、そうですね。それなら外に出ておきます。朝食出来ているので、準備できたら来てくださいね」

 繭はくるんと踵を返し、俺の部屋を出て行った。

「……忙(せわ)しいな」

 ため息を飲み込み、ベッドから起き上がる。少し寝坊してしまった、今朝は早く学校に行くつもりだったのに。
 制服に着替え、姿見で身なりを確認する。
 寝癖などついていないだろうか、ネクタイは曲がっていないか。ブレザーに埃などついておるまいな?
 逐一チェックするがきりが無く、時間もないので鞄を持って部屋の外に出た。

「改めて、おはようございます。帝様」

 部屋の外で待っていた繭が、俺の持っていた鞄を奪い取って廊下を歩く。
 俺はゆっくりとその後を追った。

「おはよう、繭」
「あら、繭って呼んでくれるんですね。召使の下女と呼んでくれても構いませんのに」
「朝からなにを言っている?」
「それともメイド女のほうがお好みですか?」
「どちらも好かん。今日は機嫌がいいな、なにかあるのか?」
「旦那様が夕食を共にしよう、と」
「ほぅ、仕事が落ち着いたのか」
「そうみたいですね、なに作ろうかなぁ」
「……君が作るのか?」
「えぇ、せっかくですから」
「それは……兄上も、望んでないのではないか?」
「私が旦那様のためになにかしたいんです」
「君もたいがい、自分勝手だな。間違ってもクッキーなど焼くなよ?」

 俺の言葉など耳に入らずで、繭は鼻歌を口ずさみながら廊下を歩いた。
 あの後、月詠を除名になった俺は一度屋敷に戻った。部屋のものは全て無くなっていたが、かたを付けなければと兄上の元へ向かった。
 陳謝する俺の声を無言で聞いていた兄だが、いよいよ俺が月詠の屋敷を出るに当たって、玄関まで来て言った。

『お前次第では、月詠に戻ることを許す』

 あれ程威勢を張ったにも関わらず、やはり故郷は恋しい。なにより、兄の条件は容易い物で俺は二つ返事でそれを了承し、月詠家に戻った。
 我が身のなんと浅ましい事か、そして自分がどれほど勝手かを思い知った。

「繭、今さらだが君に謝りたい」

 俺の言葉に、繭は立ち止まって不思議そうに振り返る。

「俺が月詠に戻る条件として君に迷惑をかけたこと、本当にすまない」

 惚けていた繭だが、やがて踵を返し、頭を下げる俺の顔を覗き込んだ。

「今さらですか? ほんと自分勝手な人ですね」
「自覚はある」
「先輩と添い遂げる覚悟をするだなんて、あの人ももの好きですね」
「君だって以前はそのもの好きの仲間だったであろう」
「私はいいんです、その後、本物の愛を見つけましたから」

 そう言って朗らかに笑う繭は、以前より随分と綺麗になった。
 半年でこれだ、この少女はこれからもっと、美しくなるだろう。

「最初は驚きましたけどね、月詠家に下女として仕えろだなんて。私の知らぬところで勝手に承諾する先輩も先輩ですよね、私の家が月詠に逆らえないとわかっているのに」
「すまない」
「謝らないでください。むしろ感謝してるんですから」

 兄上の出した条件は『香坂繭を下女として月詠家に迎え入れるよう説得しろ』というものだった。
 繭なら頻繁に月詠家に出入りしている、なぜ今さら。わけがわからぬと思っていたが、繭を迎え入れて納得した。
 彼女は本当に、男を虜にするのがうまい。

「先輩に会うために出入りしていた時より、今現在のほうが……旦那様と相思相愛の仲になれた今が一番楽しいです」

 再び歩き出す繭。
 よかったと言っていいものかもわからず、彼女の後を追った。

「でも、最近になって急に帝様の世話係に就けだなんて、旦那様はなに考えているんですかね」
「それはおそらく、俺を試しているのだろう」
「先輩を試してる?」
「俺と君の間でなにかあれば、今度こそ兄上は容赦なく俺を追い出すだろう。俺と君の関係が本当に終わっているのかと、兄は試しているのだ」
「えぇっ? そんなことする必要ないのに。私は一度好意を持った相手には一途だし、先輩だって目移りする余裕ないですもんね?」

 食事処につき、扉に手をかける繭がふふっと微笑んだ。

「でも、嫉妬させてみるというのも面白いですね。旦那様が取り乱す様(さま)を見てみたい気もします」
「……君は本当に、どうしようもないな」
「先輩の自分勝手には敵いませんよ。さぁ、新しい朝です」

 繭が扉を開けると、温かな朝の陽射しが顔にぶつかった。

「おはようございます、帝様」

 そうしていつもの日常が始まる。

4.もう一度君と、恋をする

 始業の十分前、自席に鞄を下ろすと待ち構えていたかのように紘介が俺の肩を叩いた。

「帝! なんで遅刻してるんだよ!」
「すまない、寝坊した。車を降りてから必死に入ったんだが」
「車? 送迎つきかよ! さすが貴族の坊ちゃんは」

 耳が痛むような大きな声。
 嫌味を言われている事はわかるが、俺に非があるので反論できない。

「あれ、帝、ネクタイ曲がってるぞ?」
「そんなはずは……家を出る前にも何度も確認して……」
「へぇー、何度も確認してきたんだ?」

 にやにやと笑う絋介を見て、揶揄われていたことに気がついた。
 睨みつけるが、絋介の表情は変わらない。

「身なりを気にするなんて、可愛いことするなぁ、帝」
「悪趣味だな、君は」
「少しでも格好良く見られたいんだよな? なんせ半年ぶりだもんな」

 目を細めて窓の外を見つめる絋介の視線を追った。
 雲ひとつない、晴れ渡った青空。
 まるであの日のように。
 半年前、桜吹雪の日。
 姫は東城に残ると言った。自分の生きる世界は、やはり其処であると。
 それに関してとやかく言うつもりはない。姫が自分で答えを出したのだ、寂しい思いこそあれ、難癖をつける気はない。
 しかしそれでは、姫を取り戻そうと翻弄された時間は無意味であったのでは、と思うだろう。
 否、無意味ではなかった。
 姫は東城家で暮らすことを選んだが、それは東城の嫡子である時泰の言葉があったからだ。
『半年待て』と、東城は言った。『現当主である父上は此度の汚行で失脚する。次に当主となる俺が東城を変える。戒律に縛られず自由に、東城の屋敷で暮らしながら俗世とも触れ合える風通しの良い家を作る』
 その言葉を信じて姫は東城家残留を決意し、俺と絋介も納得した。
 当主になったからといってこれまでの風潮を変えるは容易いことではない。有言実行できたというのは、彼が真に傑物であっということであろう。
 そうして半年を経て、姫は再び高校へ通うことになった。
 今日がその、半年ぶりの登校である。

「そういえば帝、ここに居ていいの?」

 絋介の言葉に、俺は首を傾げる。

「羽姫に会いに行かなくていいの?」
「なにを……」

 その時、絋介の言わんとすることを理解して立ち上がった。

「まさか……いつから?」
「俺と同じ時間に来たから、かれこれ二十分かな」
「なぜ、先に言わない?」
「いつ気がつくだろうと思って」
「本当に悪趣味だな、君は」

 勢いそのまま、教室を飛び出した。

「いってらっしゃい」という絋介の声。

 教室の出入り口で人とぶつかるが気にしている余裕もなく、廊下を走り抜けて校舎の端へ向かう。
 胸が高鳴った。
 慌てふためいて駆け込んでくる俺を見て、彼女はなにを思うだろう?
 情けないと笑うだろうか、衣服が乱れていると呆れるやもしれぬ。
 息を整えろと心配してくれるだろうか。
 また一段と美しくなっているだろうか、それとも半年前の愛らしいままの姿か。
 なにを話そう、どんな顔をして会おう。

 あぁ、他念が多い。
 今は一刻も早く、あの場所へ向かうべきなのに。

 高揚感を胸に、旧階段へ入るためのドアを開けた。

「やぁ、おはよう」

 一目見ただけなのに、嬉しさや懐かしさ、喜びの感情が全て吹き出した。
 愛らしい、可愛らしい。
 綺麗だ、美しい。
 言葉を尽しても足りない、伝え切れない。
 俺は本当に、彼女が好きで仕方がない。
 小窓を見つめていた人影が、俺の声に気がついて顔を上げた。

「おはようございます」

 挨拶の言葉あとに、彼女が。
 俺の元に帰ってきたかぐや姫が、ふわりと愛らしく微笑んだ。

「文を……帝様に歌を、届けに参りました」

<終>

#創作大賞2023

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