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小説|カラフル 鈍色の道から 1

 昔の私は自分の進んでいる道は光って見えるものだと思っていた。だがそれは若かりし頃の幻想だと気付いたのはいつ頃だったか。それすら随分前の事のように感じる。

 私の進んでいる道はどこまでも灰色だ。音のないグレーの道を淡々と歩いているだけだ。灰色の道は足音さえも吸収し、周囲は暗く明かりはない。目の前にあるのは唯々、灰色の細い道だけだ。それがどこまで続いているのか、はたまた別れているのか、それすら私には見えない。

「あなた? 少し休んだら?」

 長年連れ添ってきた妻、恵子が声を掛けてくる。だが私は首を振った。今は駄目だ。そういう意味を含めて振り返ると、恵子が困ったように笑って私の傍に茶の乗った盆を置く。茶の隣には私の好きな金平糖が載った皿が置いてある。

 私は黒い手袋を外して金平糖を一粒、口に運んだ。口の中で転がすとほんのりとした甘みが広がって心地良い。それを味わってから、私は手袋をはめ直した。

 手作りした木の台の上には透明で小さなチップが載っている。これは恵子しか知らない私のライフワークだ。

 数年前、私は会社を辞めた。流行のリストラだ。人員整理という事で私には自主退社を勧める文書が回ってきた。私は会社には必要のなかった人材だったようだ。

 やはり自営業のままの方が良かったのか。真っ先に考えたのはそれだった。塗装工として長年やってきたのだが、バブルが弾けて不景気になった折、知り合いのつてで先の会社に入ることとなった。

 最初は順調だったように思う。客の財布の紐が固くなって仕事件数は減ったが、不景気でも人は年を重ねて家を建てる。改築もする。そういった仕事は細々とだが回ってきていた。だから私を雇う余裕もあったのだろう。

 だが今は機械化も進み、私のような古い塗装工の仕事はどんどん減っている。指定の色と周囲を比べてペンキを混ぜ、刷毛で丁寧に色を置く、という作業をする職人は少なくて良い、ということだ。そうなると仕事が正確で速い者が優先されるのは当然だろう。私は自分の能力が足りないことを自覚していたため、自分から会社を辞めたのだ。

 透明で小さな丸みを帯びたチップに灰色をのせる。悪くない。私の近くで作業を見ていた恵子がまあ、と声を上げる。

「今度はグレーなの? 珍しいわね」

 確かに珍しい。私は恵子の言葉に頷いて、小さな携帯用端末、所謂スマートフォンを縁側に乗せた。それを覗いた恵子がなるほど、と頷く。画面には灰色に塗られた絵が描かれている。

 会社を辞めた私は自営業に戻った。ただし塗装の仕事は殆ど入らない。これまでの二人の稼ぎを恵子が貯蓄してくれていたものを、少しずつ切り崩して生活をしていた。

 だが近頃は副業の方が波に乗ってきたため、老夫婦が生活出来るくらいになってしまった。趣味で始めたものが生活の糧になっている。そのことは私には嬉しい誤算ではあった。

 この趣味を始めたきっかけは恵子が購入した品だった。それはとても良く出来ていた。まるで生きた景色のように美しい世界が描かれていた。私は一目で心惹かれた。

 だがその作者を知った時、私は愕然とした。そうか……という気持ちが強くなった。どういう偶然かは判らないが、恵子が購入したものには、娘の名前が入った名刺が添えられていたのだ。

 パステルカラーの名刺は手作りで、そこには娘の名前と連絡先が書かれていた。それを見た私は、馬鹿者、と心の中で詰った。インターネットでのやり取りで、本名と住所を書いてしまうやつがあるか、と説教すべきなのか。やはり娘は私に似た容姿にコンプレックスを抱いていたのか、と嘆くべきなのか。

 だが娘はそれっきり、作品を世に出すことはなかったようだ。恵子がいつもチェックしているのだが、一度もインターネットショップで見かけることはないという。恵子が何も知らない態でさりげなく電話をしてみたが、娘は元気にやっているようだった。だから、何か大事があって出来ないのではなく、単に売る気がなくなっただけだろう。と、恵子は言った。

 黙々と作業をする私を見守っていた恵子がそっと離れて行く。そろそろ夕食を作り始めるのだろう。日は傾きはじめている。私は作業の手を止めて色を付けたチップを色んな角度から見た。

 十本が綺麗に並ぶように削った台にのったチップが太陽光を反射し、一瞬、私の目に入る。光の眩しさに目を細め、私は老眼鏡を外した。

 私が色を付けているのは、ネイルチップと呼ばれる装飾品のひとつだ。近頃は男性にも需要があるらしく、若い者を中心に人気があると聞く。恵子も時々、楽しんでいるようだから若い者の特権、と言ってしまうのは語弊があるだろうか。

 出来たネイルチップを丁寧に梱包材に包んだり、客に送る作業は恵子にやってもらっている。私はそういうことは苦手だし、客とのやり取りもしていないため、よく判っていないのだ。それに恵子は昔、デパートで働いていた頃の技術を活かして、ギフト用のリボンまでかけてくれる。ありがたいことだ。

 私がライフワークとして作ったネイルチップを売りだそう、と言ったのは恵子だ。私は最初はそれに反対した。趣味で作っているものなのに、人様からお代を頂くのはまずいだろう、と考えたからだ。

 その時、恵子は怒った。それまで私は色塗りしたネイルチップを恵子に託し、誰かに無償でプレゼントしてもらっていた。だがそれを重ねるうちに、プレゼントした相手からお返しを頂くようになってしまっていたのだ。

 技術の無料提供は失礼だ。それならいっそのこと、欲しいと思ってくれる客に売った方が良い、というのが恵子の言い分だった。私は最初は渋ったものの、結局それに従うことにした。恵子が言い出したら引かない性格なのは私もよく知っている。

 しばらくすると恵子が食事が出来たと声を掛けてきた。私は作業を中断し、自作の台と道具を片付けて食卓に向かった。夜は色が確認し難い。だから外での作業は日のある時だけとしている。夜や朝など、日がない時は作業場で作業をすることに決めているのだ。

 今日の夕飯は時期外れの秋刀魚だった。どうしたのか、と思っていたら恵子がいつものように説明してくれた。スーパーで冷凍物が安くなっていたのだそうだ。味さえ良ければ冷凍物でも構わない私は、そうか、と答えて食卓についた。

「そういえばあなた。瑠衣ちゃんから連絡が来ているのだけど」

 そう言って恵子がタブレットをテーブルに置く。私は解した秋刀魚の身をつまんでいた箸を口に運び、白い飯を食べてからタブレットを見た。私のスマートフォンでも確認は出来るのだが、メッセージは大きい画面の方が見やすい。

 タブレット画面には瑠衣という少女からのメッセージが表示されていた。

Kei先生へ❤

こんにちは!瑠衣です!今日は奇跡がおきました🥳

Kei先生のネイルがお昼になくなっちゃったんだけど見つかったんです!
見つけてくれた男子から告白されてつきあうことになりました
やったー!初カレです💕

Kei先生のネイルがカレとむすんでくれました🌈
ありがとうございます✨

瑠衣

 それをじっと見た私は微笑ましく可愛らしい内容に目を細めた。いつだったか娘も似たようなことではしゃいでいた気がする。恵子に報告していた娘の声は、縁側で新聞を読んでいた私の耳にも届いていた。

 それから娘は彼氏の弁当を自分で作ると恵子に言い張った。だが恵子はそれを止めた。娘は朝に弱いから無理だと言った。そこで娘と恵子は口論を始め、私は仕方なく仲裁に入った。結局、娘は恵子と一緒に弁当を作ることに渋々同意した。

 懐かしい思い出だ。今は娘に浮いた話はないと聞く。だが私が恵子と結婚した年を考えれば娘はまだ焦る時期でもないだろう。それに今時は一人で一生を過ごす者も多いという。娘の眼鏡に適う相手がいないのであれば、それも止む無し、というのが私の考えだ。

 恵子がタブレットの上で指を滑らせる。

「それでね。瑠衣ちゃん、今度は入道雲が欲しいんですって。出来る?」

 愚問だ。その意味を込めて私は頷いた。雲を描くコツはかなり前に習得している。それを重ね、影を描き……と、私は食事を続けながら構想を練り始めた。

 その間に恵子が眼鏡を掛けてタブレットをタップし、返事を書いていく。恵子のタップ速度はどんどん上がっている。ちらりとそれを見て私は感心した。よくそんなに速く動かせるものだ。

「……全部、雲か」

 ふと気付いて私は訊ねた。すると恵子が手を止めて首を傾げる。

「待って。訊いてみるから」

 たんたん、と恵子が軽やかにタブレットに触れる。そのリズムは私には心地の良いものだ。恵子が書き終わった文面を私に見せる。

瑠衣様

いつもメッセージをありがとうございます。
今回も素敵なお話を聞けて嬉しいです。

次のご注文ですが、全てのネイルチップを入道雲の柄にするのでしょうか。
それとも入道雲を描くネイルチップにご指定はありますか?

ご連絡をお待ちしております。

Kei

 無駄も不足もないだろう。そう思って私は頷いた。判った、と言って恵子がメッセージを送信すると、すぐに返事が着た。どうやら瑠衣はこちらからの連絡を待っていたらしい。

 話によると入道雲は左の薬指のみに描いて、他は別の空模様が良いという。なるほど、創作意欲が湧く話だ。鳥の姿を入れてもいいかも知れない。

 瑠衣は高校生ということなので、3セットを最低価格で販売している。他の2セットの内容も訊いてくれ、と恵子に言い置いてから私は食事を終え、食器を流しに運んだ。

 私は作業場に移動して明かりを点けた。作業場は元は事務所として使っていた部屋だ。自力で改装し、この部屋は真昼のような明るさと色温度を保つようにしてある。

 ネイルチップと呼ばれるものに着色するためには、マニキュアやジェルネイルと呼ばれるもの、トップコートなどを使う。それらには揮発性物質が含まれており、吸い込むのは身体に悪い。

 塗装をしていた時のことを思い、私は徹底的に換気が出来るように事務所を作り替えたのだ。空調があるのに、わざわざ換気扇をつける工事をした時には、恵子がちょっと呆れていた。だが私が理由を言うと、恵子はすぐに納得してくれた。

 作業場の背の低い台にネイルチップの載った手製の作業台を並べる。さっき塗った部分は完全に乾いているだろうが、油断は禁物だ。私は別の作業台の前に腰掛けた。机にはずらりと道具が並んでいる。

 全開で回る換気扇の音が心地良い。静音設計のものを選んだが、多少は音が出る。この音を聞いていると風を感じる。実際に室内の空気は動いていて、それがネイルチップの表面を乾かすのに丁度良いのだ。

 その日はワンセット分のネイルチップの塗りを終えた。乾いたら出来上がりではあるのだが、私は塗料の匂いが気にならなくなるまで置くことにしている。出来たものは順番に並べてあり、今では作業用の机も三台になった。1と番号の振られた作業台のネイルチップはもう出しても大丈夫だ。

 私は段差のある作業場を出て、恵子を呼んだ。すると恵子がタブレットを片手にすぐにやって来る。何も言わなくても察してくれている。こういうところも恵子の良いところだ。

「そういえばねぇ。週末に由恵よしえが帰ってくるって」
「なに?」

 作業場に入ってきた恵子が言ったことに私は心底、驚いてつい声を出してしまった。由恵というのは娘のことだ。

「相談があるって深刻そうに言ってたから、もしかしたら仕事の話かもね」

 私は少しほっとした。そうか。男が出来たから紹介したい、という話ではないのか。そう考えてから私は目の前に広がる光景に焦った。

 しまった。由恵は久しく家に帰っていない。その為、ここが私の作業場になっていることを知らないのだ。この光景を見たら由恵はどう思うだろうか。馬鹿なことをしている、と呆れるだろうか。それともリストラされた私を笑うだろうか。

 いや。私は自分の浅慮なところをすぐに否定した。由恵は優しい子だ。馬鹿にしたり笑ったりはしないだろう。ただ、反応に困るかも知れない。由恵の困ったような半笑いの顔を思い出し、私は憂鬱になった。

「あなた、ここが気になるなら、鍵を掛けておけば大丈夫よ」

 梱包作業を始めた恵子が気軽に言う。そういえばそうだ。この作業場は事務所の名残で鍵が掛けられるようになっている。だが外のペンキ倉庫はどうする。あちらも鍵はもちろん掛けてあるが、日用品も入っている。

 もしも由恵がみかんを取りたいと思ったら。灯油はどうだ? いや、この時期にそれはないだろう。だが幼い頃に使っていた玩具を見たいと言い出したら?

「だから、外の倉庫にも鍵は掛ければいいじゃない。由恵も今さら、昔のバットやグローブを出したりしないわよ」
「むう」

 さすがは恵子だ。私の考えていたことがすぐに判ったらしい。由恵がいきなりキャッチボールをしようと言い出したらどうしよう、とまで考えていた私は我に返った。確かに恵子の言う通りだ。由恵はもう子供ではない。そんなものをわざわざ私が取っておいていることも知らないに違いない。

続く

                                 

スマホで表示したら少し長く感じてしまって……すみません。
5,000文字超えたのでさすがに切ります。

今回の記事にはazumiさんの写真をお借りしました。
ありがとうございます!

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