見出し画像

小説|カラフル 鈍色の道から 2

 次の日の朝、私は外で作業をしようとした。だが生憎と空は曇っていて日の光が十分ではない。これでは色の確認が出来ない、と私は作業を中断して散歩に出ることにした。

 朝早く歩くのは気持ちが良い。この時期はまだ朝は涼しく、薄着をして出ると風邪をひいてしまう。私は上着の前を合わせてゆっくりと進んだ。

「あら、西川さん。おはようございます」
「おはようございます、岩本さん」

 近所に暮らす老婦人から挨拶され、私は頭を下げて挨拶を返した。この岩本というご婦人は早朝に一人で家の前を掃除している。ついでとばかりにご近所の掃除もしてくれるため、みんなに感謝されているようだ。

 だが岩本さんは自分がしたいから掃除をしているだけで、感謝されるような事ではない、とお礼の品を突っぱねる強気なところがある。だから密かに頑固のガンちゃん、などと陰で勝手に呼んでいる者もいるらしい、と恵子が苦い顔をしていた。

 そういえば客にも強気で頑固な子がいたか。私はふと思い出してつい苦笑した。迂闊に一人で笑ったところで口許はマスクの下に隠れている。それに通行人は殆どいない。多少、顔が緩んだところで見咎める者はない、ということだ。

 強気な客はTakと名乗っている。それが名前の省略なのか、それとも単なる記号的なものなのかは私には判らない。私も恵子の名前を借りているのだからお互い様だろう。他にも不思議な名前の客は多い。

 Takは華やかで艶っぽいデザインを注文することが多い。幾らなんでもこれは派手では、と一度だけ訊いたことがある。その時のTakは良いからそれでお願いします、と返事したかと思うと、問答無用で先に金を振り込んできた。

 きっと派手でなくてはならない理由があるのだろう。人の事情などそれぞれだ。だからTakには必要最低限しか質問しないことにしている。Takが思い描く通りに出来ているのか少し不安になることがあるが、これまでクレームを受けたことは一度もない。

 それに時々だが、礼のメッセージも届く。端的でかつ飾りのない文章、というより、ありがとうございました、とだけ書いてあるのだ。だが喜んでもらえたことはありがたいことだ。それにきちんと品が届いているという実感を得られた私はほっとするのだった。

 今日はTakから注文された品を塗る予定だ。私は家の近くを大きく回るように歩きながら構想を練った。Takの要求したデザインはショッキングピンクと呼ばれる明るく派手なカラーがメインだ。それをベースにしてラメと呼ばれる光を反射して煌めく特殊塗料を入れてくれ、という。

 大雑把な注文だが、悪くないカラーリングだと私は感じた。この場合はこちらがまずデザイン画を起こして見せるところから始めなければならないが、色鉛筆で描いたものでも充分に客に伝わるのがありがたい。恵子の写真の撮り方もいいのだろう。

 大体のデザインを頭の中に描いた私の歩く速度は自然と上がっていた。急いで家に戻ってから、恵子に戻ったことを知らせて作業場に入る。作業の準備をしていると、恵子がコーヒーを持ってくる。

「今度はたかさん?」

 恵子が言っているのはTakのことだ。たか、なのか、たき、なのか、それとも、たけ、なのか。kの後の文字が判らないので何とも言えないが、恵子はたかさん、と呼んでいる。

「ピンクだったな」
「そうね。はい、スケッチブック」

 パソコン上でデジタル画を描ければいいのだが、残念ながらそういった技能は私には備わっていない。かといってペンキでベニヤに描くわけにもいかないだろう。

 そして私が辿り着いたのが、色鉛筆で大体のデザインを描く、だ。最初は12色の色鉛筆で描いていたが、近頃は24色を使うようになった。塗りのために購入したマニキュアなどの色数が増えたからだ。

 大きさは大体で爪の形を細く描く。次に下塗りとして肌色を置く。そこから私はTakが注文してきた色の鉛筆を走らせ続けた。間で時々、口にするコーヒーの苦味が心地良い。

 喉に落ちる温いコーヒーが頭を活性化させてくれる。熱いコーヒーをゆっくりと味わうのも良いが、私は恵子のいれてくれたコーヒーを少し冷ました状態で飲むのが好きなのだ。

 さあ、もう少しだ。私は意識をスケッチブックに戻してひたすら手を動かした。色鉛筆で描いていると、由恵が小さい頃のことを思い出す。小学生の頃だっただろうか。真新しい12色の色鉛筆を学校に持っていった由恵が泣いて帰ってきた。どこかの女の子が36色の豪華な色鉛筆を持っていて、とても羨ましいというのだ。

 私は泣きついてきた由恵に困り果て、恵子に助けを求めた。恵子が上手くなだめすかしていたが、私は疑問だった。その子は全ての色鉛筆を使えるのだろうか。使いこなせない色をどうするつもりだろうか。小学一年生といえば、まだ力もなく、重い物を持って学校に通うのも大変だろう。

 悶々と考えていた私は由恵の笑い声を聞いて我に返った。いつの間にか泣き止んだ由恵が恵子に絵を見せて笑っていた。私はその絵を見て思わず口許を緩めた。由恵は12本の色鉛筆を使ってカラフルな家族の絵を描いていた。私と恵子、その間に由恵。周りには花畑と大きな木があった。

 それっきり由恵は色鉛筆をねだらなくなった。むしろ12色の色鉛筆が小さくなった時、同じ物を欲した。試しに他のものはいいのか、と訊ねたら、要らないと言う。どうするのかと思ったら、由恵はにかっと笑って、紙の上で色を混ぜ始めたではないか。

 おとうさんと同じにすればできるもん!

 懐かしいことを思い出して私は思わず手を止めた。そうだ。由恵はあの時、私がペンキを混ぜて色を調整するように、色鉛筆で同じことをしていた。しかもティッシュペーパーや指を使って器用に色を伸ばしたりして、拙いながらも伸び伸びとした絵を描いていた。

 その頃の性質が恵子が買い求めたネイルチップにも表れていた。美しい海岸の景色は、家族で出かけた海水浴の様子を思わせるものだった。きらきらと光る海と白い砂浜。どこまでも広がる空。刷毛の先を活かして描かれた風は素晴らしい、とついつい親馬鹿になってしまう。

 それから私は空の柄をよく描くようになった。注文にないものを作る時は、決まって空を塗る。

 いや、今は目の前のデザインに集中しよう。私はピンクを置いたところに金と銀の色鉛筆でうっすらと線を引いた。メタリックカラーの色鉛筆はラメと呼ばれる特殊塗料を表すのに使っている。

 デザイン画が仕上がった頃には昼になっていた。丁度良く恵子が私を呼びに来る。私はスケッチブックの絵を恵子に向けた。

「あら。可愛い!」

 恵子が手を叩いて嬉しそうに微笑む。恵子がそう言うなら問題ないだろう。だがTakに直接、写真を送らないとならない。私がそう思うのと同時に恵子が頷いた。

「お昼を食べてから写真を撮るわね。たかさん宛てよね?」

 私は黙って頷き、スケッチブックを壁際のテーブルに置いて席を立った。

 昼は鯵の開きと味噌汁、ワカメの酢の物だった。私たちにはこれでも豪華な食事だ。昔のように肉が美味く感じられれば良いのだが、近頃は胃にもたれてしまうのだ。自然と我が家の食卓には魚がメインになることが多くなった。

「夕飯はそばを茹でようかしら。どう?」

 私は味噌汁を啜ってから頷いた。そばは私の好物なのだ。そば屋には負けるのだろうが、私は恵子の茹でてくれるそばが気に入っている。それにここからそば屋まで行くには、一度、街に出なければならない。そのためには車を出す必要がある。

 だが近頃は車を使わなくなってきた。どうしても必要な時には乗ることにしているが、昔のように遠出をすることはなくなった。仕事の時には必要になるため、駐車場に軽トラックが一台置いてあるだけだ。

 そろそろ免許証を返した方がいいのだろうか。そう思う事も多くなった。自分でも反射神経が鈍っていることが判るのだ。注意力や判断力、そして反射神経が鈍くなると運転も危うくなる。

 だがもしかしたら家族で乗るかも知れない。そう考えると免許証を返してしまうことが出来ない。車を処分してもレンタカーを借りるという手がある。それなら旅行も可能なのではないか。

 そこまで夢想して、私は止まっていた箸を動かして鯵の開きをつついた。昨日、由恵の話を聞いてから昔のことを思い出したり、家族というもののことを考える事が多くなった。恵子と由恵と三人で温泉などはどうだろう。そんな風に夢見てしまう。

 昼食を終え、私は先に作業場に入り、食器を片付け終えた恵子が後からやってくる。私はスケッチブックをいつもの壁に立てかけた。スケッチブックを立てかける壁には恵子が手作りしたレースのついた布が貼られている。それを背景にすると見栄えがいいらしい。私には皆目、その理由が判らない。

 早速、恵子が写真を撮影してTakにメッセージを送る。すると即座に返事が着た。珍しいこともあるものだ。Takは忙しいのか、返事は大抵、半日は遅れてくる。

 私は何気なく時計に目をやった。うちにしては早めの昼食だったため、今は12時半を回ったところだ。もしかしたらTakはこの時間帯に手が空いているのかも知れない。それかたまたまか。

「大丈夫みたいよ、あなた」
「判った」

 私は頷いてTakの爪サイズを聞いた。客の爪サイズは一応、私もメモしている。だが恵子の管理しているサイズ表の方が見やすく確かなのだ。恵子がタブレットに指を乗せてすぐに返事を寄越す。私は作業台をつかんで壁際に並べたスチール棚に寄った。

 棚の一番下の段に無色透明なネイルチップが置かれている。サイズ別に整理されたネイルチップを取り上げて作業台に1枚ずつ乗せる。

 必要な材料を机に置いて換気扇を回す。ふと気付いて恵子に声を掛けると、すぐに古い番号のネイルチップとタブレットを確認してくれた。もう送っても問題ないだろう。その意味を込めて頷くと、はいはい、と笑った恵子が出来上がったネイルチップを梱包し始めた。

 今度はTakのネイルチップだ。私は老眼鏡をかけた。ベースの色を決めてから細い筆ではみ出さないように縁を塗る。相手が大きければマスキングテープで押さえてもいいのだが、これだけ小さいと逆に邪魔になる。

 次はピンクだ。眼鏡越しにネイルチップを見つめてゆっくりと筆を近づけたその時、玄関から元気な声が聞こえてきた。

「ただいまー! ちょっと予定より早く帰ってきたんだけどー」

 は!? 由恵!? 何故!?

 私はうっかり手を滑らせ、ピンクのマニキュアがついた筆をあらぬところに走らせてしまった。ベースカラーに染まっていたネイルチップ全部に、真横のピンクの線が引かれる。

「あらあら。早いのね。電話くらいしなさいよ」

 玄関先では恵子がのんびりと由恵に話し掛けているようだ。私は年甲斐もなく慌てふためき、使っていたピンクのマニキュアを片付けようと必死になっていた。

 いや、先に鍵だ!

 ドアに飛びつこうとした瞬間、ドアが開いて由恵が顔を覗かせた。

「お父さん? あのね、実は……」
「由恵! その、話は居間で聞くから」

 由恵と私の声が完全に重なった。その後、由恵が私の肩越しに作業場を覗き込むのが判った。しまった。入り口には段差があるのだ。丸見えになっている。

 終わった。

 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。私は正気に戻ってごほん、と咳払いをした。だが由恵は逆に身を乗り出して慌てた様子で作業場に駆け込んだ。

「お父さん! ネイル作ってるの!? 嘘でしょ! びっくり!」

 笑いたければ笑え。やけになってしまった私はため息を吐いて作業場に戻り、失敗したピンクの線が描かれたネイルチップを片付けようとした。

「待って、お父さん。それ、片付けないで」

 唐突に由恵が言う。その顔を見て私は驚きに言葉をなくした。

 いつの間にか由恵はとても女らしくなっていた。もう由恵は子供ではない。ここにいるのは一人の女だ。そして大人だ。私は家族で温泉などと夢想していたことが恥ずかしくなった。

「これ、使えるよ? ここをこうして」

 急に手を伸ばした由恵が一本のマニキュアをつかんだ。何をする、と言いかけて私は慌てて口を噤んだ。私の代わりに作業台の前に座ってしまった由恵が、マニキュアを使ってネイルチップを彩っていく。

 その姿は幼い頃に絵を描いていた由恵そのものだった。

 ではない!

「待て、由恵。私の資材を使うな」
「は? どうして? こんなにたくさんあるのに? っていうか、並んでるこれ、どうしたの?」

 そう言った由恵が無造作にマニキュアの筆を瓶に戻そうとする。

「色が混ざるから待てー!」

 私は多分、この時、初めて家の中で大声を出した。

続く

                                   

すみません……5,000字越えたのでここで一回切ります。
前後編じゃなく、数字にしといて良かったかもです。・゚・(ノД`)・゚・。


今回の記事はtamakiさんの写真をお借りしました。
ありがとうございます!

◀戻る  続き▶


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?