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不安

選ぶという行為は何時何時も恐ろしく切ない。
人類がリンゴを食べたその日から人類であるが故に付き纏う罪の償いとも言えるし、代償とも言える宿命の様なものだと思っている。

現代や過去、その両方においても選択によって成功を手にする事もあれば、転落や崩壊というのも有り得る。もはや選択=ギャンブルと言っても過言では無い。

現代を生きる人々は状況や条件、その人間の度合いに比例してそれぞれの選択の重みも変わると考える人が多いように感じる。
だが、私自身は選択の重みは等しく平等と考えている。
例を挙げれば、織田信長があの時本能寺に行く·行かないという選択に対し、サラリーマンが転職する·しないという2つは、重みの変わらない選択だと考えているという事である。

織田信長は本能寺行けばそこで明智光秀に討たれて死ぬことになるし、行かなければもしかすると天下統一の夢を叶えていたかもしれない。
逆にサラリーマンは転職をすれば想像し得なかった苦痛を味わうかもしれないし、想像した通りの幸福を感じることが出来るかもしれない。転職しなかった場合も同じである。
これに対し現代人は、織田信長は死んでしまうけれどサラリーマンは死なない。死と言う単語
を抜き取り、それに対しての差を比べていると感じている。つまり、過程的観点でその事象に含まれる重さだけを判断基準に捉えているのでは無いだろうか。
そもそもこの問題に答えというものは無いのだが、この考え方では自分の本能より頭脳で思考しているため選択が鈍るような気がする。

自分の考え方としては結果的観点で捉えてみるというもの。というと、どちらも2つの選択肢に対し、4通りの結果が付いてくるが、答えは後悔と幸福の二種類だけ。
これが何択かの選択肢になったとしても、どんな選択を取らなければいけないかというそれぞれに置いても、この結果に関しては等しく同じである。

長々とここまで書いた訳だが、何が言いたいかと言うと、結局残るのは良いか悪いの二択でしかないのだから直感に身を任せて今を生きるという事。シュレディンガーの猫の様なもので、AとBがあるとして、Aを選んだ時その時にはどちらの答えも存在していてどちらか分からない状態である。その為分からないがこの問いに対して1番の正解であって、この長文は結果持論でしかない事を重々承知している。
過程も、もちろん大事なのだが選択はその時の一瞬でしかない。過程というものは選択の中には含まれないと考える。

これを書いたのにはある種、現在悩ましい状況に置かれている自分への言い聞かせの為に書いたようなものであるが、共感してくれるのであれば、共感して貰えるに越したことはない。

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