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悪しき習慣を蹴っ飛ばせ

大学院のオンライン授業が始まって、1週間とちょっとが経ちました。

やはり大学院生という身分はそれなりにやることが多いもので、なかなかこれまでのような自由な時間がとれなくなってしまったのですが(本望です)社会人だった私がもう一度学生になってみて感じたこと、これからも書き記していきたいなと思うので、ぜひ読んでくださいね。

最近はオンラインで授業を受ける日々です。

8年間会社員として働いていた身からすると、こんなにフラットな場があるものなのか、と新鮮に感じます。

「誰々の言うことを聞かなくてはいけない」「誰々の意見は絶対」「こんなことを聞いたら、出来の悪い奴みたいに思われてしまう」みたいな雰囲気のない空間。

もちろん、教授による学生の好き嫌いとか、えこひいきとかそういうものはどこかで存在するのかもしれない。そりゃあ、「あの教授はこういう考え方嫌いだから」とか、多少なりともあるんだろう。けれど、やっぱり学校のそれと、社会や会社組織でのそれは、まるでレベルが違うと感じます。


それでも、授業が始まってみて思うのは、自分の「社会人」「会社人間」な癖が、どうにもこうにも抜けないということ。

先日授業中、ある教授に質問をされ、答えてみると「うーん、違うな」と言われました。違うかー、と少し恥ずかしく思いながらみていると、次の人、次の人へと当てられていって。そして次の質問になった時、教授がまた私に「〇〇さんは、どう考える?」とふってきました。そして、思ったんです。あ、また私に当ててくれるんだ、と。

「は?」って思うかもしれないけれど、本当に思いました。厳しい会社なら「こいつ、出来の悪い奴だな」と思われて、もう話もふってくれない。違う人とのやりとりをみているだけの”部外者”になってしまう。そんな感覚を、思い出したのです。


ZOOMにずらっと並んだ学生と教授の顔を見つめながら話をしている時。自分は学生という立場でこの人たちと関わっているんだ、と十分自覚しているはずなのに、やっぱりどこかで「この教授は今、どういう意見を求めているんだろうか」と顔色を伺ってしまいます。

組織の中で社会人として生きるうえで叩き込まれてしまった「目の前にいる人が何を欲しているのかをとことん考える」という癖。これ自体はとっても良いことだし必要なスキルだけれど、そればかりに偏ると、自分が自分でいられなくなり、自分の意見が消えてなくなっていってしまう。それは、社会人生活の中で嫌というほど学んだことでした。

学生という立場の人間がやることは、先生のご機嫌をとることでも好かれることでもない。学び、吸収し、良い論文を書くこと。

それでも私は、目の前の相手には微笑んで欲しいし、できるなら私に優しくして欲しい。私と話すことを気持ちよく思って欲しいし、できるだけ距離が近くありたい。そんな気持ちがむくむくと浮かんできて、「ふさわしい」と思われる言葉や表情を選んで、表現してしまう。なんなら、目の前のこの人を喜ばせなかったら私は嫌われてしまうんじゃないか、と恐怖を覚えてしまうような感覚。こういうのは、仕事をしながら身に付けてしまった感覚なんだろうなと思います。


間違ってしまうことは悪いことじゃない。わからないことがあるのは、考えている証拠。そんなありふれた「良い感じの言葉」を、まさにその通りだな、と噛みしめる毎日。

大丈夫、何がわからなくても、変なことをいってしまっても、切り捨てられることはないんだ。そう思って、自由に考えを巡らせたいな、と思います。わからんもんはわからん。凝り固まった鎧を、捨て去る時。そんな感じです。


・・・と思うけれど、やっぱり会社組織においても「相手を満足させる」ことが正義みたいな空気はやっぱりよくないですね。社員の伸び代が、なくなってしまう。誰もチャレンジしなくなる。それってすごく居心地が悪くて、みんなにとって不幸なことじゃないでしょうか。と、今この文章を書いていて思ったのでした。

明日もまた、授業頑張ります〜

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。