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【短編】未練あと

「やめるんや」
「……お母さま」
姿見の前で髪の毛に鋏をあてがう雪乃に、母親の春子が強く言い放つ。
泣き腫らした赤い眼が動揺しておよぐ。
血色を失った唇は、複雑な感情に戦慄き震えていた。
春子は動揺する心を抑えて、毅然とした態度で雪乃に言葉を、また射るように放つ。
「ここまでちゃんと耐えて、戻ってきたんやろ」
「……」
「せやったら、最後まで意地を突き通しなさい」
「もういいんや」
「雪乃」
「もうどうなってもかまへん!」
「よすんや、雪乃」
「もう放っといて!」
「雪乃……」
「彼が好きだった髪をざんばらに切って」
「およしっ」
「未練を断ち切るんや!」
雪乃が鋏の刃を髪にあてる。
ザクッ
ポタ、ポタ……。
「な、なんで」
春子の指から血が滴り落ちる。
雪乃はその場に倒れ込む。
春子は痛みに顔を顰める。
春子は錯乱している雪乃を抱き起こして、鋏を抜き取り、諭すように言葉を放った。
「自分を貶めて何になるんや。そんなん、未練を断ち切る事やあらしまへん。それはみっともないただの見せしめや。あんたは、そんひとに要らぬ罪を背負わせたいんか」
「……それは」
「一生消えん傷痕を残して、罰でも与える気か」
「でもっ……」
「覚悟しましたんやろ」
「……」
「そんひとの幸せのために、自ら身を引くことを」
雪乃がゆっくりと頷く。
「せやったら、意地でも耐えなさい」
「そんな……」
「おもての未練は人の為にあらずや。所詮は自己満足の愚行や」
「せやけど……辛すぎるわ」
雪乃はまた泣き崩れた。
「未練ちゅうもんは、そんな簡単に断ち切れるもんやあらしまへん」
「……うちは、どないしたら」
「秘めるんや」
雪乃が顔を上げて春子を見る。
凛然として春子は告げる。
「おもての未練は、あからさまでみっともない。本物の覚悟を決めた女の未練は、かげに潜んでるんや。他人にはバレんようにな」
「……」
「誰も、傷つけてしまわんように」
「そんなこと……無理よ」
春子は昔の自分を思い出しながら、深い深い溜め息を吐いた。
「せやなぁ。簡単なことでは、あらしまへんなぁ。よっぽど肝を据えて挑まんと、まず無理や」
「お母さま」
春子は柔らかく雪乃を抱きしめる。
「因果なもんやなぁ」
「えっ」
「血とは、ほんまに恐ろしおすなぁ」
「お母さま?」
「未練ちゅうのは」
「……」
「ほんまに、やっかいや」
昔の自分を思い出しながら、春子は自嘲するように口角を上げた。
春子の身体には、おもての未練のみっともない痕跡が、今も仰々しく残っている。

ー完ー













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