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本能寺の変の真相

天正10年6月2日(1582年)、絶頂期を迎えた天下人が一夜で紅蓮の炎の中に消えました。

「人間五十年。
下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり。
ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか…。」

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敦盛を舞いながら炎に包まれた信長は、享年49歳でこの世を去りました。

光秀の黒幕として朝廷説が有力とされています。

すなわち、明智光秀は美濃の名門・土岐氏の出身で信長の正妻・濃姫(帰蝶)のいとこに当たります。

信長が尾張・美濃二カ国の太守になってから仕官した新参者でしたが、織田家中でたちまち出世頭に躍り出ます。

男子高校生2

将軍候補の足利義昭を擁して京に上洛した信長にとって、天皇を頂点とする朝廷との交渉役が必須でした。

光秀は朝廷の儀礼を定めた有識故実(ゆうそくこじつ)、古今集等、古典や礼式に通暁した当代随一の教養人としても著名です。

京の久家や文化人との交流があったため、地方出身の信長としては重宝できる人材でした。

しかし、天下統一にさしかかると信長は右大臣の官位を辞し(散位)、朝廷のコントロールから外れ、時の正親町天皇に譲位を迫ります。

天皇の孫に当たり、信長の猶子(家督は相続出来ない養子)五の宮が次期天皇候補になります。

さらには、天皇家を文化保護者の立場に落とし、信長は皇帝を目指したとする説もあります。

その鍵は天下人の城・安土城の構造にヒントがあります。

通常の城は「天守閣」

「天を守る」と書き、武器や弾薬の貯蔵庫として使われ、大名が生活することはありません。

しかし、安土城は「天主閣」

「天の主」と書き、信長はここで寝食をしていたとされています。

そして、この「天主閣」から下は螺旋階段で繋がれ、たどり着くのは「御簾の間」

天皇家を象徴しているとされる部屋を、天主閣からの螺旋階段が押さえつける形になっていたとされています。

本能寺の変後、安土城は信長の次男・信雄によって焼失しました。

動機は不明ですが、後世から逆賊として後ろ指を指されるのが怖かったといわれています。

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さらに、晩年は自らを「総見院」と号し、総見寺に安置した「石」を信長として崇めさせました。


無位無官の信長に、朝廷は「三識推任」(さんしきすいにん)を打診します。

「三識」とは、すなわち、天皇の代理人「関白」、武士の頂点「征夷大将軍」

そして、平清盛も就いた朝廷の最上位「太政大臣」を指します。

右大臣を辞し、無位無官ということは朝廷の秩序から外れていることを意味します。

だからこそ、危惧した朝廷は最高位への就任を信長に打診したとされています。

ですので、三識推任の問題とは「朝廷側から打診したのか、信長側から打診したのか」により、天下統一後の政権構想を知る上で大きな手がかりになります。

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旧制の比叡山・延暦寺を焼き、石山本願寺を攻め、室町幕府を滅ぼし、楽市楽座の導入で寺社・商人の既得権も破壊しました。

信長が掲げた「天下布武」は、単に武力で天下を統一することを意味するだけではありません。

真の意味は、「日本のあらゆる階級・既得権を打破する」ことにあるとされています。

天下統一目前の信長にとって「天下布武」の最後の旧体制が「朝廷」でした。

秩序を守り、天皇に対する尊崇の念が強かった光秀を朝廷がそそのかしたとする説が有力です。

このあたりの描写が2020大河ドラマ「麒麟が来る」でどのように描かれるのかは興味深いと思います。

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人間五十年に届かない、四十九で炎の奥に消えたのも信長らしい気がします。

旧制を果敢に打破し、新しい秩序を打ち立てようと一生を駆け抜けた信長の生涯に現代人が憧れるのではないでしょうか。

けいじくん


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