Callingってなんだろうね〜2020年、私の仕事の覚書〜


好きなことを仕事にしなさい。

得意なことを仕事にしなさい。

やりたいことを仕事にしなさい。

よく聞くよね、このフレーズ。自己啓発本コーナーに行ったら、こういう帯のオンパレードな気がする。

あ。あと、「楽しいことを仕事にしなさい」も忘れちゃいけない。

タピオカと違って、こういう本は基本的にずっと流行ってる。

みんな、仕事に悩んでるってことよね。私を含めて。

で、私はどんな仕事をしているかというと(賃金発生がないものも含む)

・2歳の娘を育てる

・料理、洗濯、掃除、その他諸々の家事

・翻訳

・文章を書く

今の所、これくらいかな。どれも必要に迫られてやっているもの。

正直、全部「やってみて、できないことはない」レベルだと思ってる。

やりたいかと言われたら…2歳の娘と遊ぶのは楽しいからやりたいけれど、わがままMAX状態になっている娘を外に連れ出すのはしんどいから、ちょっとやりたくないことに入るかもしれない。家事は基本全てやりたくない。料理は気が向いたらやりたい。翻訳も正直、下手だからやるべきじゃない気がする。でも頼んでくださる人がいるから、その温かいお心に答えようという思いで精一杯頑張っている。それに私には、王家の宝刀、英語ネイティブの夫がいるのだ。だから、最終チェックを夫にすがれば、商業レベルには達することができる(ありがたや)。ついでに、夫のいるアメリカに引っ越した時に食いぶちがなくなるのが非常に怖いので、何か稼げる手段を持っておきたいという魂胆もある。

そして最後のやつが一番やっかい。文章を書くこと、だ。

これは、私の人生の一番の問題なのである。

母曰く、私は3歳ぐらいから折り紙を使って自作の絵本を作り、家族中に配布してまわるほど書くことが好きだったらしい(インターホン越しにパンフレットを持ってキリストの素晴らしさを説いてくるおばさまくらいの押しの強さだ)。確かに、小学校に入っても作文の時間はとても楽しかったし、基本書くものは全部褒められて嬉しかった記憶しかない。感想文は書けばクラスの代表に選んでもらえたし、学生時代にもらった賞状のすべては作文に関することだった。

だから、だから勘違いしてしまったのである。私は文章を書くのが得意なのだと。

本当に、ここが大きな間違いだった、と今となっては思う。

それからというもの、私は文章が上手なのだという思い込みの元に突っ走り、高校生の時にフリーペーパーのライターになってからは(これも、当時は私が才能があるから採用されたのだと勘違いしていた。でも実際、大人になって気づいたのは、あれは誰でもやる気さえあればなれたのだ。そして私はやる気の塊だった)、何かしらものを書く仕事についてきた。そう、「書いている私(クリエイティブ)かっこいい」と思い込んで。そのくせ、自分が思っている以上に周りに認めてもらえないことにひどく傷ついて、それを挽回しようと無理をして、また認められなくて、落ち込む。というスパイラルをかれこれ100万回ほど繰り返してきた。(さすがに100万回はないかな?せいぜい1000回くらい)ところが、どんなところにも神様はいるもので、下手な私にも文章を書かせてくださる素晴らしい大人の方々との出会いがあり、細々とライターを続けていたのだ。それが2014年までのお話。

で、2014年以降、人生の波乱万丈な嵐が吹き荒れて(それは後々書くとして)文章を書く仕事をメインにやることを休んでいた。

その間の私は、NPOの職員だったり、地元企業のパートだったり、専業主婦だったりした。そこで感じたのは、私は文章を書くことに対して、ものすごいプレッシャーを日々感じていたのだということだった。そしてそれから逃れられて、とても幸せに感じた瞬間が少なからずあったのだ、ということである。

そして、今現在。

私はひょんなことから記事を書くことを友人に頼まれた。そして、今日、書き終わった。あー、やめたいと何度も思った、のだが。

久しぶりに書く「原稿」は、やっぱり楽しかった。

でも、これが人に読まれるのかと思うと、すごくすごくすごく不安で、今日も夜は眠れないだろう。「ちゃんと読んでもらえるか、伝わるか」「頼んでくれた人の期待に添えるか」「Webのビューカウントちゃんと稼げるか」とかそういうことを考えると、無限ループで本当に辛い。安眠アプリで癒しの音楽を流しても、俄然、目が冴えるのだ。

で、何が言いたいのかと言うと。

好きなこと、得意なこと、やりたいこと、正直まだよくわからないんです。

つまり「私、自分の天職は未だわかりません」ということ。

その昔、辛いことが多すぎて、カトリック修道会のシスターをしている叔母に(今はローマにいる。コロナが心配)私、シスターになってもいいかな?と聞いたら「Vocation は神様からのcalling があって初めて決まるのよ。Sちゃんにはまだcallingがないんでしょ?じゃあまだその時期じゃないわ」とばっさり断られたことがある。

Vocation?バケーション?ボケーション?

calling? コーリング?電話?

と、?ばかり連なるアドバイスだったのだが、詳しく聞くと

「シスターになるには神様から与えられた使命(Vocation)であるという確信が必要。そのためにはcalling、すなわち神様から呼ばれた、この道に行きなさいと心に語りかけられた、確かな経験があるはずである」ということらしい。

実際、シスターに限らず、神職についている方の多くはそうした神秘的な経験があって、そうした道を歩んでいらっしゃるのだそうだ。そして叔母曰く「神職に限らず、人にはそれぞれ使命があって、それを感じる瞬間はきっとある」。そして月日は流れ、2020年現在の私、未だに使命がわからない。

ただ、不思議なことに、本当に不思議なのだが、辛いことがある時には必ず、私の文章が採用されたという知らせが届くのだ。それは文章を書く仕事から離れていた時も同じで、例えば、新聞の声に載った、とか、ウェブの小さな記事の依頼をもらったりだとか、すごーく小さな採用なんだけれども、それが私だけの、些細な、でも大きな支えになってきた。だから、文章を書くのを100%やめることができなかった。それが正直なところ。で、もしこの一連の小さな出来事が神様のcallingなのだとしたら…音量が小さすぎはしないだろうか、神様。昔の黒電話くらいの音量じゃないと、チキンなハートを持ち、耳の遠い私には聞こえないのです。天に向かって叫びたい気持ちになってしまうじゃないか。

てな訳で、私の心の電話がリンリンとけたたましく鳴るその日まで、とりあえずのところは、目の前にある「やれば一応できること」「人のお役に立てること」「生きるためのお金が稼げること」を粛々とやり続けることを「私の仕事」と定義したいのです。

娘が大きくなって「ママの仕事は?」って真面目に聞いてくる頃には(10年くらいまだ時間あるかな?)、もう少しはっきりと自分のプロフェッショナルを答えられるように、心の耳を澄ましていたいなと願いつつ…明日もお仕事、頑張ります!












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