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部屋の温度とパンチ力【エッセイ】

部屋の温度に敏感になった。
娘が生まれてからだ。
小さな手足が冷えていたら可哀相だし、暑くて汗をかいていたら背中にぽつぽつと汗疹(あせも)ができる。
皮膚科に診てもらったら、あまり汗疹がひどくなるとそこからアトピーになるそうだ。
私も妻も小さい頃はアトピーだったので、「いや、これはまずい」と気をつけるようになった。
部屋の温度くらいこまめにチェックすればええやろ、と思うかもしれないが、これがどうして一度神経質になると室温というのは厄介だ。
居間にいる時は、ベビーモニターで寝室の娘の様子を見ている。
モニターには温度計の機能がついていて、ちゃんと画面の端に室温が表示されるのだが、この数値が意外とあてにならない。
仮に同じ23度だったとしても、その日の湿度によって体感温度は違ってくるからだ。
特に今のような梅雨の時期だと、20度くらいでもじんわり汗ばむことだってある。
娘はまだ寝返りを打つことができないので、背中にむんとした熱気がすぐに溜まってしまう。ベビーベッドに敷いたタオルがぐっしょりと濡れていると、ごめんなと心が痛む。
数十分に一度は、人間の肌で暑さ寒さを確認しなくちゃいけないのだ。

ここでひとつの問題が起こる。
私と妻の体感温度が違うということ。

私が「ちょっとじんわり暑いかな」と思ってエアコンの温度を下げると、寝室に入ってきた妻から間髪入れずに「寒っ」とツッコミが飛ぶ。
慌てて上向きの矢印ボタンを連打する。
反対に部屋がそこそこ冷えてるなと思って、タオルケットの上にもう一枚おくるみをかけてあげると、娘の手を握った妻が「手、あつあつやん」とおくるみを剥ぐ。
そういうのは親として何だか立つ瀬がない。

私自身、自分で雑なところがあるのは分かっているので、もうちょっときめ細かく娘の面倒をみるべきなのは間違いないんだけど、しかし体感温度という主観的な感覚の「正解」が、暗黙の前提として妻のほうにあるものとして立ち回ってしまうのは何故なんだろうと思う。

思えば、夫婦二人の生活の時は、室温に関してのお互いの意見がまだイーブンに扱われていた(扱っていた)ような気がする。
やはり娘が生まれてからだろう。
多分、私も妻も主張の勢いというか、言葉のパンチ力自体は変わっていないのだが、妻のつけているグローブが重くなっているのだ。
母親というグローブのオンスである。
ロジックの観点から見たフェアネスは崩れるけど、そういうのってなんだかんだであると思う。
世の中の大概は、そういう理性の外にある気合いやオーラ、雰囲気で足場が組まれているのだ。
年齢なんかまさにそれだ。
私は不惑を越えているのだけど、中身も口に出してる言葉も二十代の頃と大して変わっていないが、やはり三十の半ばくらいから同じ事を言っていても頷かれることが多くなった。
元々押しが弱い性格なので、何を言っても軽くあしらわれていたし、それに慣れてもいたのだが、こちらの声があっさり通ってしまったことに対して、大いに戸惑ったのを覚えている。
だって、前と同じ事言ってるだけやし。
特にビジネスがらみで、話が通りやすくなったなぁと実感する。
これは中年男性(の事業主)というグローブの効果と見るべきか。

私は何より人の精神の自由を尊重する人間だけど、ビジネスの場では女性より男性のほうが意見を押しやすいし、子育ての場では男性より女性のいうことに耳が傾けられているが現実だと思う。
(余談だが、先日娘を連れて行った病院の授乳室に「パパはご遠慮ください」と貼り紙があって、じゃあどこでミルク飲ませればええねんとショックを受けた)
好むと好まざるとに関わらず、我々はそういうグローブをつけて、つけられて、パンチ力が「嵩まし」された状態で他人と向き合っている。

そんな嵩ましされたパンチが通ることを、自分自身の正しさの証左だと勘違いしていたとしたら。
そんな想像は恐ろしい。
いや、そんなこと考えてしまっていいのだろうか? 大丈夫か?
今後の人生に差し支えるのではないだろうか?

「親」だってそうじゃないか。

自分自身の実力とは違うところで、子どもが抗うことのできない力を持っている。

今ベッドですやすやと眠っている娘に対しても、やがて親というグローブをつけて向き合わざるを得ない時がくるのは間違いない。
いざ打ち合う瞬間。
なるべくほわほわした、猫の指毛のようなグローブをつけていられるように心がけたい。




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