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Midjourneyは生産か消費か

先日、話題のMidjourneyミッドジャーニーを使ってみた記事を書いたのですが、その後もサブスクリプションに申し込んでAIお絵描きを楽しんでいました。

ぼくは風景写真と人物ポートレートが好きなので、適当な語句をMijourneyに入力して、あれこれ試行錯誤しながら、仕事の合間を縫って自分好みの画像を生成していました。
こんな感じ。


これはこれで面白かったんですが、延々とAIに自分好みの画像を作らせていくうちに、ちょっと変な感覚が湧き上がってきました。

何ていうか、ZOZOTOWNとかのファッション通販サイトで、延々と服を探している感覚に近くなってきたんです。

ああいったサイトって、自分の欲しい服の情報を打ち込んで検索しますよね。
「Tシャツ、半袖、黒、ブランド名」とか入力すると、それに当てはまる服がズラッと出てくる。何ページもスクロールしていって、好みの服が見付かったらタップして詳細を見てみる。気に入ったらカートに入れる。

Midjourneyで画像生成のために語句プロンプトを打ち込んでいる途中から、ネットショッピングとまったく同じ行動パターンを取っている自分に気が付きました。
そして罪悪感ような気持ちを感じ始めたんです。
やることがない時にネットショッピングで暇を潰してしまう罪悪感ですね。
ただ消費をするための消費をする後ろめたさです。

Midjourney自体は、とてもクリエイティブなサービスだと思います。
見たこともないハイクオリティな画像を次々と作っていくことができるので、自分が生産的なクリエイションに身を投じていると錯覚してしまいます。

もちろんぼくの友人の漫画家のように、作品のアイディア出しのために使ったり、Midjourneyに入力する語句プロンプトを研究したり、小説の挿画やnoteのヘッダー画像を作ったりするのは、生産的な行為だと思います。

問題なのは、それらのクリエイションがただ自分の欲求を満たすためだけに使われたらということ。どれだけハイクオリティな画像が生まれたとしても、それは生産ではなく消費です。ネットショッピングを楽しんだり、アルコールで酩酊するのと変わらない。

もちろん、そういった消費こそ人間的な振る舞いということもできます。
効率的な生産活動だけやっていても、人生何が楽しいんじゃいって話です。

ぼくが薄ら寒いものを感じたのは、こういたAIに提供される消費、もっと言ってしまえば、AIによってenhance強化された文化に耽溺することに人類は抗えないだろうという実感・・を持ったからです。

視覚芸術だけではなく、音楽や文芸やゲームやポルノに至るまで、やがてはAI生成がメインになることに疑いの余地はありません。
生身の人間が作るものはゼロにはなりませんが、ぼくらが工場で加工された食品を毎日摂取しているように、人の手によるものは減り衰えていきます。

将来、AI生成を上手に利用して創作するクリエイターもいるでしょうし、AI生成のようなインスタントな創作では鑑賞に足りないという人もいるでしょう。
でも9割5分くらいの人間は、AI生成で十分満足できると思います。
(実際、ぼくも自分が生成した画像に結構満足してしまっているので)

創作という生産活動をAIが担ってくれるのだとすると、人間に残されている文化的な活路は、創作物を持ち寄って交流することしかないんじゃないかという気がします。
なんだか古代ギリシャの市民みたいですけど。
でも現代では、ネットにおける人間の交流ってネガティブなイメージのほうが強くなっていますからそれも怪しいか。

ぼくは名作とは、「それを知る前の自分には戻れないもの」だと定義しています。
今のところAIにはそこまでの衝撃を与えられてはいません。
もしかしたら、背後に人間のいない創作物は、人を変えることまではできないのかもしれません。
でももしAIによって、自分が変えられるほどの感動を受けてしまったら。

どうなるんだろうなぁ。

多分、今後の可能性の大きさに幸せを感じるか、何も信じられなくなるかのどっちかなんでしょうね。
いやその両方か。



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