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のら猫たちの戦い 前編【エッセイ】

ふらっと買い物をして戻ってくると、家の駐輪場に一匹の猫がいます。近づいてもまるで逃げるそぶりがなく、不敵に寝転びながらこっちを見ているメス猫。
名前を〈ふぁんとむ〉といいます。私がつけた名前です。
三毛猫なんですが、顔の左半分がベタッと真っ黒なので、『オペラ座の怪人』のファントムから取りました。馴染みのご近所さんです。

〈ふぁんとむ〉と出会ったのは7年前。私が今の家に引っ越してきた時です。彼女はじつに堂々と町内を散歩していました。この〈ふぁんとむ〉、まあケンカが強いのです。まさに縄張りシマを見回る女親分という感じ。私の新居は前から〈ふぁんとむ〉のテリトリーだったわけで、私のほうが後からお邪魔したかたちです。
たぶん向こうからすると、「ふうん。変な奴が越してきたけど、ひとまず害はなさそうだから放っておこう。でも冴えない顔の男だから、エサはまあ期待できないかな」なんて思ってたんじゃないでしょうか。当たってますね。

私のほうは私のほうで「体も大きいし、ふてぶてしい顔しているし、コイツはオスだろう」と早合点して〈ふぁんとむ〉と名付けたのですが、三毛猫って遺伝的にメスしかいないらしいですね。後から知って申し訳なく思いました。
私(と奥さん)と〈ふぁんとむ〉は、毎日のように顔を合わせます。見かけなくなっても1週間もすると、当たり前のように戻ってきます。どこか旅行にでもいっていたような雰囲気です。
ただ、あまり仲良しというわけでもありません。
「やあ、ふぁんとむ」と挨拶はするけど、それだけ。エサをあげたりスキンシップしたりはしません。
あちらもあちらで最低限の警戒は緩めません。1メートル以内に近づこうものなら、バッと跳び上がって逃げていきます。
〈ふぁんとむ〉と私たちには、ちょっと複雑な歴史があるのです。

3、4年前まででしょうか。町内にはのら猫がたくさん棲みついていました。10匹以上はいたんじゃないかな。猫好きなお家ばかりなので、みなさんそれぞれエサをあげたり、水の入ったボオルを軒下にそっと置いておいたりと、猫たちを可愛がっていました。飲食店さんも多いので、ねずみ除けという意味もあったと思います。のら猫というより、地域猫というやつですね。
猫と人との相性なんでしょうか。なんとなく、この猫はこのお家と仲がいい、あの猫はあのお家と仲がいい、あのお店にはあの猫がやってくる、っていう振り分けが自然とできてきます。もちろん厳密に決まっているわけじゃないけど、大体の感じでそうなってくる。

我が家は、なんと猫の「一家」と仲良くなりました。お母さん猫と生まれたばかりの子猫が5匹もいる大所帯です。
猫は縄張り意識の強い動物なので、自分のテリトリーへの他の猫の侵入を許しません。〈ふぁんとむ〉も例に漏れず、他所から来た猫を見つけると、毛を逆立てて片っ端から追い払っていました。
しかしどうやら、子育て中の母猫と子猫は例外なんですね。短気な女親分もこの一家だけは黙認しているようでした。ちょっと鬱陶しそうな雰囲気は出すのですが、決してケンカを仕掛けることはありません。猫の世界全体がそうなのか、〈ふぁんとむ〉の粋なはからいなのかちょっと分からないのですが、おかげで私と奥さんは、この猫の一家と楽しい日々を過ごすことができたのです。

子猫の成長は早く、一年もすると立派な成猫になります。
5匹の子猫のうち、1匹は事故で亡くなってしまい、2匹はどこかに行ってしまいましたが、お母さん猫と残りの子猫(もう見た目はすっかり大人です)2匹は、ちょくちょく私の家に上がり込むほどの仲になりました。裏手の窓を少しだけ開けておくと、勝手に入ってくるのです。私が気配を感じてテーブルの下をのぞき込むと、椅子の上に1匹ずつずんぐりと座っている猫たちの姿があります。
エサを食べたり、水を飲んだりして満足すると3匹連れだって、あるいは1匹、また1匹と気のおもむくままに帰っていきます。
私たちは母猫を〈お母さん〉、変わったハチワレ模様をしたオスの子猫を〈へんはち〉、尻尾の短い三毛のメスの子猫を〈まけ〉と名付け、飼い猫同然に可愛がりました。
私は猫のおもちゃや爪とぎ、クッションなどを買ってきて、猫たちの居場所をつくってやりました。我が家にいる間はリラックスしていますが、一歩外に出れば、のら猫たちには厳しい世界です。いつ車にひかれるかも分かりませんし、よその猫に出会ってケンカになるかも分かりません。せめてうちにいる間は親子で楽しい時間を過ごしてもらいたかったのです。
特に〈へんはち〉と〈まけ〉のきょうだいは、私たちの部屋がとても気に入ったようで、時には丸24時間以上も居着いてごろごろしていました。本当に全然帰らないんです。心配になったんでしょうね。〈お母さん〉がそーっと見にきたんですが、「あのう。うちの子、まだお邪魔してます?」と顔に書いてあって吹き出しました。母親は猫も人も変わりませんね。
刺繍作家の奥さんは、猫たちの可愛い姿をスケッチし、刺繍にしていました。写真も呆れるほどたくさん撮って、iPadの壁紙にしていました。(この時の経験が忘れられず、私たちは数年後に猫を飼うことになります)

しかし、〈ふぁんとむ〉は面白くないようでした。
幼いうちならいざ知らず、成長しきった子猫たちと、子育ての終わった母猫は、彼女にとってもはや許されざる存在になっていたのです。
猫の一家と、女親分〈ふぁんとむ〉の抗争の幕が上がります。

つづく


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