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砂の女を読んだ時

中学校時代には今の自分よりもたくさん本を読んでいたと思う、殆どは図書館の本と家の父親の本棚に有るものだった。(漫画は自分で買える値段だったので、買ったりしていた。)

テレビも制限されて、本も余り買って貰えなかったので、図書館や本棚の本は癒しやねー、と言う感じだった。

もし母親がテレビや本を制限しなかったなら、きっとあれほど本は読まなかったと思う。

父の本棚で好きだったのは、大江健三郎氏の鯨が死滅する日と安倍公房氏の作品だった。

特に安倍公房作品は好きで読みこんでいた、安倍公房作品は最初は一般的な(一般的の本当の意味は謎だが)人間が、いつの間には非日常の状態に囚われて、それを納得してしまう物が多い。

戯曲で(作品名は忘れたのですいません)家に「これは自分の家だ」と言う家族が住み着いて、何故だか共同生活を送ってしまう物が、自分にとっては衝撃だった。

それ以上に衝撃だったのが砂の女だ、ー罰が無ければ逃げるたのしみもないー最初にそう書いてあった。

最初から最後のページまで、そこに出てくる男に名前は無い、女の名前など興味も無い様だった。

男は仕事の休みに昆虫採集に行って、砂で埋もれそうな家で、水を配給して貰って生きている女と出会い、その家に閉じ込められてしまう。

最初は何とかそこから逃げようと、じたばたと逃げる手立てを考える、捕まった当初は力で逃げようとしていたのが、それから女に一緒に逃げる様に諭したりする。

中学生の私は如何して逃げないんだろうと言うよりも、これは人間の生活だと思った。

毎日、毎日、屋根を壊す勢いで落ちてくる砂を、留めて放りだす仕事を生きるために続ける。

それこそ、一般の人間の生きていく世界なんじゃ無いかな。

そして、ふとカミュだと思った、カミュがシーシュポスの神話で、休みなく石を転がして、その石が転がり落ちると、また運び上げると言う罰を受けていると言う。

だけど、その罰は安部公房氏は罰だと思わずに、人の営みだと思ったのだろう。

男は捕まったからと言って、道義的には妻でない女と関係を持つ、だけど、それも仕方が無いと言う諦めの感覚がそこに流れている。

何だか、だから仕方が無いよなと自分を正当化する人々を呪っている文章に感じた。

男は一度逃げて帰って来る、逃げるのは何時でも出来るのだから、別に慌てて逃げ出したりする必要は無いのだ、逃げる手立ては又その翌日にでもと考えている。

最後に、失踪に関する届け出の催告が書いてある、そして失踪者として審判される。

人は今ある現実からは簡単には抜け出せない、そこが罰でなくて生活ならなおさらなのだ。

この作品は映画にもなっている、私は映像作品は余り見ていないが、きっと誰もが、生活に埋もれて見失ってしまう自分を、感じるのではないだろうか。

もう一度しっかり読んで考えたいと思う作品だ。


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