見出し画像

【掌編小説】 鏡の中のあの子

 どうして誰かを失うと、自分自身まで見失ってしまうのだろう。無色の言葉たちが頭に浮かび、反芻される。硬い床の上で寝転がって、天井を見上げていた。寝る場所がない訳ではない。ベッドはいつも通り、すぐ隣で私のためのスペースを空けていた。寝苦しい夜、というのとは少し違う。寝たくもなければ起きていたくもない。温もり、柔らかさ、安心感・・・ベッドの上のそういうものたちが、疎ましく思う夜があるのだ。道路のど真ん中で、アスファルトの上で眠ってみたいと思うこともあるけれどそれは現実的に考えて危険すぎる。投げやりになれない自分も、投げやりになりたい自分も嫌で嫌で仕方がない。こんな夜が時々やってくる。それは、月の満ち欠けのようにとても自然なことのようだ。
 泣いてみたらすっきりするかもしれない。明日だって仕事があるのだから、早いところ質の良い睡眠に向かいたい。意図的に鼻をヒクヒクさせて、涙を浮かべさせる。思いのほかそれは簡単なことだった。ほんの一分ほど、嗚咽して泣いた。泣いてみたら、自分の体が自分のものであること、そして世界の一部であることを感じられた。悪くない。

 ちょうど一ヶ月ほど前のことだった。職場から真っ直ぐ帰宅し、熱いシャワーを浴びてすぐに眠ろうと思った。電気を消して布団に潜り込むと、首元に違和感を覚えた。枕の下に何かがある。触ってみると、薄くて固いものが布の袋に入れられているようだった。起き上がり、壁を探って部屋の明かりを点けた。袋から出てきたのは手鏡だった。自分の部屋に覚えのない物があるというのに、不思議とこれは私のものだと感じた。ずっと前から私の持ち物だったけれど、今までは見えていなかっただけのような気がした。気がしたというより、そうであることに間違いなかった。

 鏡の中を覗くと、男の子がいた。彼がどんな風貌だったのか、今ではほとんど思い出せない。人のような、人ではないような、小人か、人形か、着ぐるみか、思い出せるイメージはぼやけてしまっているけれど、確かに男の子だった。海岸に座って、焚き火の準備でもしているようだった。その子の背景には細い月の浮かぶ空が見えていた。

「君は誰?どうしてそこにいるの?そこで何をしているの?」
 私は興味津々で声をかけた。
「つまらない質問だな」
 その子は答えた。「でもキミと話してみたかったよ」
 私の声は届いていて、彼の場所と繋がっているんだ。

 ふたりで話したことを、細かく思い出すことができる。彼は、彼の好きな歌を聞かせてくれた。彼のいる大きな島国のことを教えてくれた。彼が出会った人々のことを話してくれた。毎晩のように私たちは話して、お互いに「ありがとう」を言ってから眠りについた。

「キミに会いたいよ」
「私だって会いたい」
「まだその鏡を潜ることはできないんだ」

「見て。花を見つけたよ」
「綺麗ね」
「すごくすごく綺麗なんだ。キミにも近くで見せてあげたいよ」
「優しいのね」
「優しくなんてないさ」
「でも私は優しいと思ったわ」
「キミは何も知らないんだね」
「でもその花の名前は知ってるわ」
「でも、直接見たことは無いんだろう? ここでは名前なんて、すぐに変えられるんだよ」

「ねえ、今日の君はずいぶんと汚れているみたいだよ」
「キミもずいぶん汚れているみたいだ」
「汚れてなんかいないわ」
「僕も汚れてなんていないよ」
「鏡が汚れているのかしら」
「鏡が汚れるわけないよ」
「ねえ、本当に汚れているわ。拭いた方がいいんじゃない?」
「拭くべきなのはキミだろ。なにも気がついていないんだね」

「分からないわ、すごく混乱しているの」
「見たくなければ鏡を割れば良いよ。簡単なことさ。僕はいつでもそれができる」
「君も、鏡から私を見ているの?」
「僕は、キミの鏡に映っているだけだよ」
「君から私は見えないの?」
「声は聞こえてくるよ」
「私だけが君を見ているの?」
「キミは質問ばかりだね。僕が話したいのはそんなことじゃないんだ」
「どうしたら良いか分からないの。間違えてしまいそうで、すごく怖い」
「キミはいつもそうだ。キミの世界の人たちはみんなそうさ」
「君と私と、何が違うのかしら」
「いつも教えてるじゃないか。また僕が言わなきゃいけないのかい?」

「よく見えないの。君の姿がぼやけてきた」
「キミは僕を知らないからだよ」
「君は誰なの?」
「まだ気がつかないの?なあ、キミが見ているのは何だい?」
「私が見ているのは君だよ」
「どうやって僕を見ているの」
「鏡の外から君を見てる」
「これはキミの鏡だよ。キミの鏡に映るのは、誰だい?」


「キミは君だよ。当たり前のことじゃないか」


 そう言ったのは、誰の声だったのだろう。広いはずの床はとても窮屈だった。色のない言葉たちが反芻される。反芻して、傷つけて、傷つく。まるで自分の体の中の血液がもう自分のものではないみたいに、受け入れ難いものだ。どうして誰かを失うと、自分自身まで見失ってしまうの? その答えはもう知っているはずだった。




ここまで降りてきてくださって、ありがとうございます。優しい君が、素敵な1日/夜を過ごされますように。