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【ショートストーリー】 混色の映画


 寒さのピークはまだかと待ち構える季節、朝の地下鉄車内は、黒っぽい上着を着た人ばかりだ。中にはベージュを着た人もいて、黒い中にあると少し目立つが、それでもどれも地味な色だ。

 隣にいる彼女がくすりと笑って、僕の肩のあたりでささやく。
「ポッキーみたいだよね」
 彼女も同じことを考えていたのか。
「ラッシュの時間だからね」
 僕の返答は、彼女の期待とかなり離れていたと思う。でも彼女は「うん」と明るく言って、初めて電車に乗る子どものように、可愛らしい笑みを浮かべていた。

 そう言っている僕らも、景色に馴染んでいた。僕は黒のコートの中でじゅうぶんチョコレートの役をこなしていたし、彼女が着ているのは紺色だった。紺色は彼女によく似合う。彼女が言うにはブルーは明るすぎるらしく、服屋で見かけても通り過ぎてしまう。黒色は「いつでも着られるから」という理由で、さほど好まないようだ。では紺色にどんな希少性があるのか、考えてみても僕には分からないけれど、僕は彼女の着る紺色が好きだ。ブルーも黒も彼女に似合うだろう。でも紺色は、彼女の淡いピンクの唇や、いくぶん上を向きすぎた小さな鼻を、とても魅力的に見せた。僕らはふたり平均して30の歳だ。

 僕らは映画館に向かっていた。と言っても、在来線で4時間ほどかかる場所にある。その映画館は、彼女が最近読み終えた小説にちらりと出てくるのだと言う。

 2日前の夜、彼女から電話があった。

「ちょっと抜け出してみようよ」前置きもなく彼女は言った。「今度の金曜日。ねえ、いいでしょう?」
 彼女は有給を使うのだと言うので、僕もそうすることにした。

 なにもラッシュの時間に合わせて出発する必要はないと思ったが、各々の職場に向かう人混みの中で旅先に向かうのも、なかなか良いものだ。彼女はきっとそれを分かっていたのだろう。彼女の右手は、僕の左手を突ついたり、指同士を絡ませたりして遊んでいた。

 乗り継ぐたびに車内は空いていく。目的の駅で扉が開き、電車内に冷たい風が入ってきた。プラットホームに降りると、少しばかり水彩絵の具のような匂いがした。
 観光する場所も見当たらない、のどかな街。悪く言えばさびれた街だ。どこかから学校のチャイムの音が聞こえた。

 彼女は散歩がしたいと言い、僕も同意した。寒さは歩いていくうちに、どこかに消えてしまった。神社やら本屋やらを寄り道しながら歩き、目についた喫茶店に入った。
 マスターらしい、伸ばしかけた髭がぎこちない男性に、サンドウィッチとコーヒーを注文する。サイフォンで煎れられたコーヒーを飲みながら、しばらく話していた。彼女の話はなぜか、どれも絵本の中のような空想に聞こえた。

 そこから映画館まで、ゆっくり歩いても15分ほどだった。僕たちは上演時間のいちばん近い映画のチケットと、1杯ずつのホットココアを買った。この映画館にはスクリーンが2つあるようだ。奥のホールに入り、真ん中あたりの席を選んで座る。
 お客は僕らのほかに3人だけだった。小学5年生くらいの少年と、そのおじいさんと思われる男性が前の方にいて、手編みらしいニットを被った50か60代の女性が、僕らの2列後ろの端にポツリと座っていた。僕ら5人を合わせたら、3世代の一家にも見えるだろう。ちょうどココアが冷めた頃、映画は始まった。

 タイトルを確認しなかったが、クラシカルな雰囲気の映画だった。50年代くらいに作られたものだろうか。主人公は映画制作の衣装係で、サード助監督の青年に恋をしていた。だがその青年の方は、制作会社の社長の娘との結婚が決まっていた。衣装係の少女(現代なら少女と呼んでもいい年齢だろう)は、ひょんなタイミングで助演女優の代役を任され、助監督の青年は少女の美しさに気がつき恋に落ちる。ありがちなストーリーだ。でもどの役者の演技も素晴らしく、いつの間にか僕らは映画の世界に夢中だった。当時のカラー技術は、あとから彩色したように色が浮いて見える。でも古ぼけた画面の中にいて、登場人物たちはどこか鮮やかだった。

 映画館を出て、新鮮な空気を吸い込む。早めの夕食を決める役は僕に任された。感じの良い洋食店を見つけて、僕らは入ることにした。外壁に取り付けられた店名の銅板は青くなっていて、ガラスのランプに優しく照らされていた。

「助演女優が足をくじいたのは、きっと、社長の仕業だよね」
 先に運ばれてきたワインを飲みながら、彼女が言う。思いがけない考察だった。
「衣装係の子とあの社長、妙に親密だったじゃない。制作会社の社長が、ただの衣装係とあんな風に話したりしないでしょう」
「あぁ、どうだろうね。一言も話したことがないのが普通だろうね」

 運ばれてきた料理は、白い湯気をめいっぱい立てていた。よく磨かれたカラトリーを手にとる。

「そうでしょ? ヒロインと社長に関係があって、それであの子に役を与えようとしたの。まさか娘のフィアンセをとられちゃったっていうのは大誤算で」
「娘よりも若い子に?」
「うん、ロリータ的な趣向とか」
「そうかなぁ」
「じゃあどうして助演女優は役を降りる羽目になったの?」
「不運だよ」僕は答える。「そういうことが起こるんだ」

 確かに、助演女優に起こったハプニングは謎のままだ。しかし僕には、そんなことはちっとも重要に思えなかった。この年代の映画は主要な人物を中心に作られていて、それ以外の人物の都合なんて考えられちゃいない。それが、その人にとってどんなに悲劇であってもだ。

「それに」僕は続ける。反論しても彼女は不機嫌にならないし、むしろこういう議論は好きだと知っている。
「それに、社長がそういう感情を持ってるなら、女優として羽ばたかせるよりも、衣装係のままの方がいいんじゃないかな。自分の保護下に置いておける」
「うん」ビーフシチューをスプーンにすくって、彼女は続ける。「それこそ不運ね」
 彼女が映画の中の誰に感情移入しているのか、僕は分からなくなった。

 彼女はそのビーフシチューを、本当に美味しそうに食べていた。
「一口どうぞ」
 僕の心を見透かしたように彼女が言う。きっと彼女の口元を見すぎていたのだろう。
「ありがとう。でもなかなか良い映画だったよね」
「あなたのそういうとこ、好きだな」彼女は笑いながら、僕のグラタンを突つく。彼女のスプーンについていたシチューのブラウンが、僕の白いマカロニに残った。そんなこと、彼女は気にならないようだ。僕も気にせずいただく。

 食事を終えると、僕らは駅の近くまで戻っていって、往路で探しておいたホテルにチェックインする。
 ほんのりと酔った彼女は部屋に入るなりコートをするりと脱ぎ、ふーっと細い息を吐いてベットに寝転んだ。滑らかに靴を脱いだようで、僕にはその瞬間が分からなかった。
 丸く開いたセーターの首元から、ブルーの下着が見えた。

「先にシャワー浴びたら」僕は、彼女の顔にかかった髪をのけて訊く。
「ゆっくりしよう」彼女の柔らかい頬が動く。「今日は抜け出してきたんだから」

ここまで降りてきてくださって、ありがとうございます。優しい君が、素敵な1日/夜を過ごされますように。