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【ショートストーリー】 論理的妄想


 男の子になって、とびきり可愛くて自由な女の子に振り回されてみたい。そんな講義つまんないわよ、だから私と来る方がずっと良いわよ、って、根拠のない言葉で、日常から連れ出されてみたい。出会ったばかりなのに自分の悪いところをそっくり突かれて、驚かされてみたい。講義室でひとり、ぼーっと考えていた。長い机がびっしり並んだ、だだっ広い講義室で。

「すみません」
 声をかけてきた男子学生は、文庫本を手にしていた。ううん、声をかけてきたというのは正確じゃない。奥の席に座るために、通してほしいというだけのことだ。
 私はさっと立って通り道を譲った。その拍子にボールペンが落ちたのだけど、気がつかれる前にそっと蹴って隠した。
 彼が座ったのは3つ先の席。彼と私の間には2つの空席がある。私もすぐ座って、彼を見過ぎないように注意しながらボールペンを拾う。急いだから、体を起こすときに机に肘が当たってしまった。床に固定された机は揺れることがなく、彼は気づいていないようでほっとした。

 ゆっくりと動くその彼は、学生にしてはやけに小さな鞄を肩にかけていた。確かに、そこに文庫本が入るゆとりはなさそう。家を出たときにはぴったりの容量だったけど、午前の授業で配布物を受けとったら、文庫本のスペースは外に追いやられてしまったんだ。というのは昨日の私の話。
 ベージュのシャツに、オーバーサイズの白いニットベストが似合っていた。というのはここにいる彼のこと。クリっとした垂れ目。高すぎない鼻があどけなくって、口は…

 と思ったところで、筆記用具を出し終えた彼が顔を上げた。あまりじろじろと見るのは良くない。こっそりだとしても、きっと良くない。
 うん、でも、整った顔かと訊かれれば、どうだろう。彼の中身を気に入ったら、その顔もたちまち愛おしく感じるんだろうな。そんな印象を受けた。

 まもなく講義が始まった。論理学。と言っても初回の講義だから、まだ【学】と呼べるところまで及ばない。全講義の3分の2回は出席しないと単位がもらえない、とか、でも出席カードの回収は毎回しないから、回収がない日は全員出席にしておく、とかそんな話だ。そんな出欠の取り方っていい加減じゃないか。まあ、こっちに困ることなんて何もないのだけど。学生に楽をさせておくと、教授も手間が省けるんだろう。
 脳の2パーセントくらいを働かせておけば理解できる話だ。だから、残りのパーセンテージは別のことに使おう(人間は脳の100パーセントを使えていない、と聞いたのはどこだったっけ。実際どれくらい使われているかなんて知らないけれど)

 例えば、彼が今の位置の右隣の席に座って、私もひとつ左の席に座ってみたら。

 私たちは、隣同士で講義を受ける。特に話すわけでもない。なんとなくお互いの存在を感じながら講義を受け、同じタイミングでレジュメにメモする。

 妄想にしては控えめだけど、そのくらいしか浮かばなかった。
 というか、この妄想が誰かの頭の中まで漏れてしまっていたら恥ずかしい、などと、それこそおかしな妄想をしてしまい、それ以上進めなかった。

 コツコツ
 シャープの芯を一旦しまう。

 カツカツ
 また芯を出して、配られたレジュメに〈ねむい、眠い、ネムイ〉と落書きする。

 ー論理的思考は説得において…なんたらかんたら。いつの間にか【学】に突入していた。


 翌週の講義前、私は前回彼がいた席に座った。
 彼はあとから来て、私の3つ手前に座った。前回私がいたところ。今日の講義では、もう少し妄想を進めてみても良いと思う。

 ーAはBである、かつ、CはAである、ならば、CはBである…
 教授の声が聞こえる。ゆったりと無機質に話すのはどういうつもりなのだろう。わざわざレッスンを受けて、人を眠たくさせる声でも習得してきたのか。
 講義の内容なんて、どうでもいい。演繹的思考よりも、私は帰納的妄想に浸っているのだ。

 私たちは隣同士で講義を受ける。かつ、ピンクのマーカーペンは私しか持っていないから、一緒に使う。かつ、レジュメの隅っこで、無言の絵しりとりをする。ゆえに、私たちは恋人のようだ。

 コツコツ
 シャープの芯をしまう。

 カツカツ
 また芯を出して、ホワイトボードに書かれた文字を、机上の紙に真似る。〈x=真ならば…〉意味が分からない。


 さらにその次の週、教室に着くと既に彼はいた。珍しい。そう思いながら私も席に着く。いや、珍しいというほどこれまで回数がなかったか。時間差で思う。データ不足。さっき統計学の講義を受けてきたばかりだ。

 あ、間違えた。
 心の中で、顔が赤らんだのを感じた。いや実際そうだろうか。確かめようがない。余計に顔が熱くなってきた。
 間違えた。やってしまった。彼の席の、隣の隣に座ってしまった。今までよりも1席分、距離が近い。こんなに近くに座るつもりなんてなかったのに。だって彼が先にいたからさ。動揺してたんだよ。心の中の誰かに言い訳していた。

 でも今から席を変えるわけにもいかない。おかしな奴だと思われる。とりあえず呼吸を荒くしないことに専念する。隣に座っちゃったんじゃないんだから。
 スマホを触るフリ。とりあえずメールアプリを開くけれど、未読のメールはない。あるのは、ネットでモノを注文した時か何かに、勝手に登録されたメルマガだけだ。スワイプして削除。スワイプして削除。

 彼が白いビニール袋から何かを取り出す。あ、生協のパンだ。私の好きなやつ。チョコクリームの入ったコッペパン。甘すぎるけど、また食べたくなってしまうやつ。レトロな感じが可愛くて。懐かしさはないけれど、好きな。

「あ、それ」
 自然と声が出た。
「え、」と驚く彼。こっちを見てる。いちばん驚いているのは私だ。

 どうしよう。出席カードを手渡す間柄を素っ飛ばしてしまった。
 私のプランでは、出席カードの回収の時に「お願いします」と言って、彼に送るのが最初の段階だった。

 違う。違う。どうすればいいんだろう。
 彼がパンを取り出したので、私は声をかけた。って、そんなの非論理的だ。

 ー昆虫には足が6本あり〜…哺乳類は脊椎動物であり〜…
 カセットから再生されているような声が聞こえてくる。今、彼と私は、4つの空席を挟んで講義を受けている。この教授はなにを言ってるんだ?これは生物学の講義だったんだっけ?

 妄想への入りが曖昧になっていた。寝落ちしたみたいに、現実との境目が曖昧なまま、そこに入ってしまった。だめだ、これは。

コツコツ
シャープ芯をしまう。

コツコツ
5つ隣の席からも聞こえた。


カツカツ


カツカツ



ここまで降りてきてくださって、ありがとうございます。優しい君が、素敵な1日/夜を過ごされますように。