ごはんとセルビア。日常と非日常。
突然だけど、わたしはごはんについて書いてある本が好きだ。
「食べる」には価値観が乗り、その時の背景が乗り、社会が乗る。「食べない」という選択も含めて、毎日のごはんにはさまざまなバックグラウンドがかくれている。
『パンと野いちご』は、セルビア難民のことばを編み上げたインタビューの本だ。日本人である筆者が、住まいを失いながらも生きる友人たちの声を日本語にしたいと思い書き上げた。
けれどこのインタビューで彼女は難民である友人たちに、戦争のことや昔住んでいた場所のことを問いかけることはしない。
筆者がたずねるのは、ごはんの話だ。
台所でのこと、マーケットでのこと、思い出深いレシピのこと、それを取り囲む家族のこと。本の後半にはインタビューの証言から再現したレシピも掲載されている。それは、わたしが日本の京都の田舎のアパートの一室で、まいにちお弁当を作ったりお味噌汁をつくるのと変わらない平凡さがある。
でも、そのごはんの話には、戦争や、難民として移動する日々が編みこまれる。それなしには語り得ない。そこでふと気づく。この人たちの日々はわたしの日常と地続きなのだと。遠い世界のことではなく、地続きなのだと気づく。
そしてそんな日常を紡ぐ彼女たちは、非日常に対してしずかに抵抗する。そのひとり、ゴルダナ・ボギーチェビッチはクロアチアから難民になり、コソボに移り住み、さらにコソボから難民になってベオグラードへ逃れたひと。NATOの空爆のさなかで市場におとずれて食べ物を買う。生ハム、ワイン、卵。サラダ菜、真っ赤な二十日大根、長ネギ。
「なぜ私がこんな状況のときに、市場にいつも通っていたかというとね、それは料理をするということは、家族がみんな仲良しだという感じを生み出してくれるからなの。料理をするということは、家族を集めるということなの。こうした状況のなかで、正常な気持ちを生み出してくれる。それは、異常なことが起こっていることに対する抵抗でもあるのよ」
『ばあちゃんの幸せレシピ』という本も、やはりごはんが中心にある。中村優さんが世界を歩いて、「料理させてください!」と言って台所に入って料理する。台所に入ると、余計な力が抜けて、おばあちゃんたちは自然に話し出す。あたりまえのようにある平凡なごはんづくりから、まったく平凡とは言えないひとりの人のひとつだけの人生に出会う。
横浜の圭子おばあちゃんは、こんなふうに言う。
「家の周りは全部焼けてしまった。ある日、空を見ていたら、B-29が低空飛行して焼夷弾を私の家の真上に落とすのが見えたの。ハッとしたんだけど、風邪で爆弾は散って、私の家の庭には爆弾がぶらさがっていた重い鉄板だけが落ちてきたの。奇跡的に私の家は燃えなかった。だからね、その胴体を分解して……フライパンにしたの!庭にかまどをつくって、その上で炒めものでもなんでもして、『いい気味』っていいながら食べたのよ」
非日常が日常に負けてしまったようなエピソードに笑ってしまう。わたしは庭に不発弾なんか落ちてきたことがない。圭子おばあちゃんが見た景色はどんなものだったんだろう。悲しい思い出もたくさんあったと思う。でも、横浜に住むひとりのおばあちゃんは、その経験を笑いに変えてしまったのだ。
最近亡くなられた樹木希林さんが、
「楽しむのではなく、面白がるの」
と言っていた。まさに圭子おばあちゃんは、面白がっている。
「楽しむ」という言葉にある自発性や内発性は、とても現代的で強い言葉だ。でも「面白がる」という言葉にあるのは、眼の前にある現実にさあ来い!と言っているような小気味よさと、いい意味での諦めがある。それでも生きることは諦めていない。
さまざまな悲しい出来事を目の前に、「楽しみなよ」という言葉はときにむごい。動きたくても動けないときはある。でも「面白がる」ってものすごい言葉だね。悲しい現実が目の前にあるなかで、それでもこの人生を、面白がれたら。そんな、明日を生きていってもいいと思えるような瞬間をわたしはそこかしこにつくりたいし、毎日のごはんはそれを叶えてくれるような気がする。
わたしの #推薦図書 はごはんにまつわる本にしてみました^^
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