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助ける者と、助けられる者。

最近知り合ったA子さんは、「自分は社会の役に立っていない。生きている価値がない」と悩み、思い詰めていた。

A子さんは、30代。独身。彼氏なし。一人暮らし。休職中。

持病があり、医師からしばらく仕事をしないように言われているという。そして、そんな自分を責めていた。「仕事をしていない私なんてダメだ」「仕事もしていない人間にご飯を食べる資格なんてない」と。

そんなことないよ、仕事をしていなくたってA子さんの魅力は変わらないし、仕事をしていない人間に価値がないなんてことはないよと言ったのだけれど、彼女の自己否定は止まらない。

ただでさえ塞ぎ込みがちな寒い冬に、追い打ちをかけるように連日コロナのニュースが流れ続ける中、一人でずっと部屋に閉じこもっていたら、どんどんネガティブな思考に陥ってしまうのも無理はない。少し外に出て誰かと関わったほうがいいのでは?とアドバイスしようかと思ったけれど、病気で働けないとなると、どうやって社会と接点を持てばいいのだろう? 同年代の友人たちは働いているか、結婚して家事や子育てに忙しいから、A子さんも連絡しずらいという。

結婚せず仕事もしていないA子さんは、本当に世の中の役に立っていないのだろうか? そもそも「役に立つ」って何だろう? と考えながら、私はA子さんの話を聞いていた。

実はA子さんはかなり壮絶な生い立ちで、身寄りがない。

A子さんのアパートの隣の一軒家には80歳を過ぎたおばあちゃんが一人暮らしをしていて、寂しくなるとときどき隣のおばあちゃんの家に遊びにいくそうだ。一緒にご飯を食べたり水戸黄門を見ながら、おばあちゃんの同じ話を30回ぐらい聞いて帰ってくるのだという。

「自分のおばあちゃんに甘えたことがないから、おばあちゃんという存在に憧れてるのかも」とA子さんは笑った。

A子さんは、週に一度はおばあちゃんと近くのスーパーへ買い物に行くそうだ。二人とも車がないので、おばあちゃんのペースに合わせて途中で座ったりして休み休み歩きながら…。

おばあちゃんの家に行くと、電気や水道代の督促状が来ていて、おばあちゃんが「払い方がわからない」というのでA子さんが代わりにコンビニに払いに行ったりもするという。

またあるときは、おばあちゃんがかれこれ2か月もお風呂に入っていないというのを聞いて、A子さんがお風呂に入れてあげたそうだ。

おばあちゃんには3人の子どもがいるが、子どもたちは皆それぞれ独立して家庭を持ち、おばあちゃんの家に来ることはほとんどないという。おばあちゃんも年なので「本当は、子どもに頼りたいんだけどねえ。でも迷惑だろうし、頼りたいなんて言えない」とA子さんにぼやいているそうだ。どの家族にもさまざまな事情がある。実家に寄りつかない子どもたちにも、子どもに頼れないおばあちゃんにも、それなりの理由があるのだろう。

ある日、おばあちゃんが家の中で倒れているのを発見したのもA子さんだった。すぐに救急車を呼び、息子さんたちに連絡をし、到着した救急隊員におばあちゃんが患っている病気や症状、普段飲んでいる薬などを説明して、後から来たお嫁さんに救急車の付き添いをお願いした。最後に救急隊員の人から「ところで、あなたは…?」と聞かれたそうだ。そりゃそうだ。A子さんの行動はまるで身内のように見えるどころか、実際、身内よりもずっとおばあちゃんのことをわかっていたのだから。だが、どのような関係かと問われればただの隣人である。

「A子さん、めちゃめちゃ役に立ってるじゃん。おばあちゃんの子どもよりおばあちゃんの面倒見てるし、息子さんたちもA子さんのおかげで助かってると思うよ。」と、私が言ったらA子さんは涙をこぼした。

「おばあちゃんの役に立ってるなんて、そんなこと思ったことなかった」と。

私だったらたぶん、「おばあちゃんの面倒見てあげてる私ってエライ」とか、口には出さずとも心の中で思ってしまうと思う。でも、身寄りのないA子さんは、自分が寂しいからおばあちゃんに会いに行き、その場で気が付いたことや自分にできることをただ普通にしていただけで、そこには「おばあちゃんのために」とか「おばあちゃんが可哀想だから」という気持ちは微塵もなかった。一人暮らしのおばあちゃんがA子さんを必要としていたのと同じように、身寄りのないA子さんもまた、おばあちゃんを必要としていたのだ。

傍から見れば、おばあちゃんがA子さんに助けてもらっているように見えるけれど、おそらくA子さんはおばあちゃんを助けることによって、無意識に自分の存在価値と生きる意味を見出していたのではないだろうか。

「私、役に立ってるのかな? 私、生きてる意味ある?」とA子さんが泣きながら真剣に聞くので、私はもう一度、力強く言った。「めっっちゃ役に立ってるよ! おばあちゃんもおばあちゃんの子どもたちも私も、みんなA子さんがいてくれて良かったって思ってるよ!」

A子さんは「ありがとう。そんなふうに言われたこと今までなかった。自分が誰かの役に立ってるなんて思ったことなかった。うれしい。」と言って、また泣いた。そして涙を拭いたA子さんは、元気を取り戻した。そんなA子さんを見て、「私も少しはA子さんの役に立てたのかな」と思ったら、私も今日を生きた甲斐がある気がした。

何を隠そう、実は私も少し鬱気味だったのだ。だけど、A子さんを励ましているうちに「私も、こうして誰かの話を聞くことや励ますことができるのだ」ということを感じて、自分の存在を肯定することができた。

人は、誰かの役に立つと嬉しいものだ。相手が喜んでくれたり、その人の支えになっていると思えるだけで自分の価値を感じられる。心からの「ありがとう」という言葉は、人に力を与えてくれる。

帰り道、元気になったA子さんの顔を思い出しながら、ふと気づいた。

私がA子さんの役に立てたと思えるのは、A子さんが私に悩みを話してくれたからで、つまり、彼女のおかげで私は「役に立つ喜び」を感じることができたのだ。ということは、「私がA子さんの役に立つ」とき同時に、「A子さんも私の役に立っている」ってことじゃない?

人はつい「助ける側」「支える側」のほうが立場が上のように勘違いしてしまいがちだけど、そうじゃない。誰かを助けたり支えたり、役に立つのは、そもそも助けを必要としている相手が存在しなければ成立しない。悪役がいなければヒーローになれないのと同じように。

すべては共同創造なのだ。

A子さんの存在は、おばあちゃんの役に立っているし、おばあちゃんも、ちゃんとA子さんの役に立っている。たとえ本人は気づいていなくても。

私たちはみな、互いを必要としてこの世界に存在している。

だから、誰もが生きているだけで、きっと誰かの役に立っているのだ。

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