見出し画像

「女装家の死神」 6月プライド月間に寄せて

私です


この記事は6月というプライド月間に寄せた文章です🏳️‍🌈

プライド月間とはLGBT問題の啓発と理解推進を促す期間で、日本も含め世界中でパレードなど様々なイベントが開かれています。

まずタイトルに関してなのですが、先日久しぶりに会った友達に「お、女装家の死神!」と声をかけられて「これだ!」と腹落ちしました。自分を表すフレーズとしてこの上なく気に入っています。私自身が葬祭業に長らく従事しているリアルな「死神」であり、かつ地下アイドルオタクとして推してきたアイドルがみんな辞めていくジンクスがある「死神」でもあります。ああ悲しい…

LGBT問題を取り扱う時、性的少数者の差別の歴史、あるいは現状において存在する差別などに焦点が当てられることが多いです。それはそれでいいのですが、私は「女装家の死神」として別の観点からLGBT問題に向き合おうと思います。そのキーワードは「違和感」です。

さて、女装家の死神なんてフレーズを耳にすれば普通「は?」という反応になります。理解できない存在であると受け取られるでしょう。女装家はまあともかくとして、死神なんてギョッとする表現ですしイヤな思いをする人もいるかもしれません。しかしそこがポイントです。人の望む望まざるによらず、死を意識すること(Memento Mori)ができるのです。それはイヤなものを見せつけられるとも言えます。しかし見たくないものにフタをした結果、人類は過ちをつねに繰り返すに至ったのではないでしょうか。

たとえば街中でメイクをして女装している男性が歩いている場面に出くわしたと考えてみましょう。多くの人の反応は目を逸らすかじろじろ見るかどちらかのはずです。しかし、スーツを着た男性が歩いていても何も起きません。男性が歩いているという事実は共通しています。

このような反応のベースにあるのは強い違和感です。忌避感と言い換えてもいい。そこから一歩踏み込むなら、それは社会通念上求められるべき行動規範からの逸脱によって生じた感覚です。存在そのものが逸脱である場合すらあります。そのわかりやすい例がセクシャル・マイノリティ(性的少数者)であると言えます。

性的多数者(≒異性愛者)から見れば性的少数者の行動は、ラブ・パレードやゲイ・コミュニティに対する一般の反応を見ればわかるように、必ずしも好意的ではないものです。私個人も女装家としてカミングアウトした時点で離れていった人たちも大勢いました。これは致し方ないことなのです。

差別は良くないとどこでも言われます。でも差別は存在する。矛盾するように思いますが、実はそうではありません。なぜと言うに、差別とは本来どこにでもいる人が何気なくしている行為だからです。つまり、ごく自然に人間は差別的感情を持っているということです。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人をアウシュヴィッツなどの強制収容所に送ったことは有名です。その他には、ロマ人、ソ連軍の捕虜、共産主義者などの政治犯、売春婦、そして同性愛者が送り込まれました。こうした人々は、広く言うところのマイノリティでした。

彼らが強制収容所に送られた背景には、こいつらは理解できない、穢らわしいという違和感がナチス側にあったからです。だからこいつらは消して構わないというシンプルかつ恐ろしいロジックがそこに働いています。そのロジックがイデオロギーとして正当化され、遂には排除という暴力行為が権力によって極端な形で実行されるに至ったということです。最近公開された『関心領域』という映画に見られるように、残虐非道を極めたナチスの高官たちが家に帰れば優しい夫、優しい父親だったという事実は、そこまで不可解なものではないように思えてきます。彼らにしてみればマイノリティ排除は自分の家の庭を荒らす野犬を追い払ったくらいの話だったのかもしれません。

今日も、この違和感によるマイノリティの排除は形を変えてなお続いています。我々はその事実から目を逸らしているのです。性的少数者とて社会の構成要因として生きています。同性を愛している、異性の格好をする、自分の性別に疑問を持ってしまう。制度が進んでも、そういった事実を周囲に隠さざるを得ない人たちがたくさんいます。国や地域によってはカミングアウト=死に繋がってしまう場合すらあります。

だからこそ、そろそろ綺麗事抜きに認めるべきではありませんか。我々には気に食わないものを徹底的に忌避し、それがエスカレートすると暴力的に排除する傾向を持ち合わせているという ことを。状況や立場が変われば容易に排除する側だった者が排除される側に回ることは十分にあり得るのです。

しかし一方で理解できないものに接して「キモい」と感じること、私はそれ自体を否定するものではありません。その時に抱いた感情にフタをすることは問題から目を背けることです。これは「差別はいけないこと」「多文化共生」という美辞麗句をただ繰り返す行為と同じなのです。

他者に対する寛容あるいは共生とは、非常に面倒くさくて不快なものです。考え方も違う、言葉も通じない人間と同じ屋根の下暮らすのは良い心地のしないものです。だから排除することのほうが遥かにコスパの良いものです。しかし我々は過ちから学ばなければなりません。国家・社会の単位であれ、個人の単位であれ。

自分が何かキモいという違和感を覚えた時、自問自答してみてほしいものです。なぜキモいと感じたのか、そこに後ろめたさはあったか、自分自身はキモくないのか…そして、キモいからといってその存在は消してよいのだろうか。

声を上げることは難しいことかもしれません。しかし誰かの心に、それが不快であれ爪痕を残すことはマイノリティという存在を認知してもらう方法はいくつもあります。私の場合は、それが女装になります。これは自分の趣味であり一種のアイデンティティの表明でもあります。

私は「女装家の死神」です。私はキモい存在として人々の意識のなかに居座り続けるつもりでいます。たとえどんなに社会から嫌われようとも、プライドをもって。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?