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SAC about YODAN

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2016年3月の記事一覧

サクちゃん方程式【中学生のスマホどうする?問題】

ちょうど1年前のいまごろ、中学生になるあーちんの「スマホどうする?問題」について、考えたなと思い出していた。 携帯電話とかインターネットがいいかわるいか、安全か危険か、などと、ピンポイントにそこだけ議論しても、キリがなくて答えは出せない。そうすると、こどもにも伝えることができない。 そういう悪循環と正解のなさに、今年もまた迷っているひとがいるかもしれない時期なので、1年前のことを思い出して書いてみる。 わたしは、自分がなにかについて判断するとき、何を知りたいかというと、

すきなひとには、すきにしてほしい

わたしがあーちんによく言うセリフのひとつに「好きにして」というのがある。 あーちんはどちらかというと心配性なので、「◯◯してもいい?」「◯◯したいんだけどどう思う?」と、細かく確認しようとわたしに聞いてくる。 その返答は9割がた「好きにして」だ。 そのなかには「自分で考えて決めて」という要素が多く含まれていて、いいともダメとも言われないから、どちらにしろ決めたことを、さいごまで人のせいにできない。 「好きにしていいから」とやりたい放題やるようになるかというと、そうでも

チーム別「エア上司」制度のススメ

こどものころから、集団行動が苦手だけど、人間観察はすきだった。 そして、どうして学校にはこんなにたくさんの人がいるのに、仲良くなれる人がいないんだろう、と思っていた。自分に問題があるのかもしれないと思っていた。 だけど、今ならわかる。そりゃいないわ、と。 こどものころから、ひとを見るときに、ざっくりと10種類くらいの、色別のチームに分かれて見えていた。 わたしは黄色チームで、なかなか同じチームの人に会えなかった。 人数(地域)や年齢で絞り込んだすくない人数の中では、会

ポッキーからアルフォートへ(これからの働きかた)

じぶんの仕事のあり方について、見直す時期だなと思っていた矢先に、日経ビジネスオンラインの糸井さんのインタビュー記事を読んで、ドキドキした。ギクリもした。 昨年末から、今までしてきた自分の仕事について書き出してみて、その勢いやあぶなっかしさをふりかえって、無知が故にできたことも多いなと思った。 パティシエ業界の働きかたについて、疑問に思ったり、どうにかならないのかと考えて、一緒に働くスタッフには、自分の望むバランスを自分で決めてもらったりした。 「自分」を中心に、「時間」

今日一日の終わりに ハハハと笑えれば(夢の話)

ねむりにつくかつかないか シーツの中の瞬間、 aikoは「いつもあなたのことを考えて」いるというけれど、わたしはこどもの頃からいつも、その日の、主にイヤだったことを思い出してしまう。 それは、イヤだなと思ったことや、わからないことを「あれってつまりなんだったんだろう」と解体して、納得してから眠りたいという、イヤなことを次の日に持ち越さないために意図的にしていることだ。 こどものころ、なぜかすごく早い時間に寝かされていたのだけれど、眠くないので、自然と眠るまえは考える時間

合い言葉はミラクル クルクルクル(偶然のつくり方)

ひとに説明するのがむずかしいくらい「偶然」「たまたま」だという出来事や話がだいすきだ。 「運がいい」という話もまた、同じようにすきだ。 そしてわたしとあーちんは、運がいい。 運よく、何十倍の倍率の都民住宅に当選して、 運よく、格安の物件が見つかりお店をはじめ、 運よく、あーちんがほぼ日マンガ大賞で入賞した。(これは実力か。怒られるわ) そして、はじめて飛び込んだほぼ日の事務所には、微妙な知り合いがたくさんいた。 微妙な、というのは、友達の友達(数人)、友達の彼女、友

わかり合えないのは、部屋とTシャツとわたしたち

たかが文字、されど文字。 文字から伝わるものと、伝わらないもの。 今日はいちにち、ちょっと考えさせられた。 まあ案の定、昨日の記事で、よろこんでもらったり怒られたりしている。 今ここで書くべきことは、なぜかすでに数日前に書いていたという、せっかちなんだかバカなんだか、よくわからないけど未来日記感。 記事の内容については、別に共感だけがほしくて書いたわけでも、怒っているひとを批判したかったわけでもないので、読んだひとの中で勝手に料理していただければいいかなと思う。 そ

保育園落ちても生きて(できれば笑って)いこうぜという話

先日から話題の「保育園落ちた」関連について、思うことがあって、でもまあ書きづらいなー言わなくてもいいかなー怒られるのやだなーと思って書かなかったのだけど、日曜で読んでいる人も少ないだろうし、書いちゃう。 まず、保育園が足りないこと、多くの人がとても困っていること、それに声をあげたほうがいいということは、まぎれもない事実だ。 その理由もこの記事を読んで少しだけわかった。 そして国会で話題にあがるまで届いていて、誰もまちがってはいない。 しかし、だ。 まず「死ね」はダメ

わたしの思いをジョークにしないで(お母さんキャラ設定、やめませんか)

喫茶店で、隣のテーブルでおしゃべりしていた60代くらいの女子トークを聞いていて、思い出した。 母の世代のひとたちは、演技がすごかった。 明らかに、電話に出るときや親同士で話すときに、声色がかわって、キャラをつくっていた。 嫁として、母として、それが求められてきたのだろうと思うし、そのまた親の世代なんかは、それよりももっと役割を求められていたのだろうから、それを見てマネをして、そうなっていったのだと思う。 子供ながらにぼんやりと「おかあさんってそういうものなのかな」と思

うるせえな 負けねえぞ 明日はどっちだ(情報社会への憂いと愛)

わたしのすきな人の傾向で「口げんかがつよい」というのがある。 その人とケンカがしたいわけではなくて(できれば誰ともしたくない)、口げんかがつよい人というのは、相手の言っていることを把握するのが上手なのだ。 その力で、相手の話を逆手にとったり穴を指摘したりする使い方をすると、つよいということだと思う。 わたしは「言ってる意味がわからない」「むずかしく考えすぎなんじゃないの」などと言われると悲しい気持ちになるので(伝える力が足りないのもある)、すんなり把握してくれる人がすき

サヨナラさえ、上手に言えなかった(自己チューのいいわけ)

男のひとの顔をさわりたくなる。 さわる機会などなかなかないのだけれど。 父が死んだ日、霊安室で父のそばにいたとき、顔をさわるとカチカチにかたくてつめたくて、それは肌と肌の感触ではなく、肌と物の感触だった。 父は容れものになってしまった、と思った。 数日後の父の葬式の日、冷凍保管されていた父の顔はもっと冷たかった。 父はもうそこにはいなかった。 わたしはこどもの頃からずっと、父を意識して生きていた。そして、どこにいても、なにをしていても、なぜかいつもどこか憂鬱だった